終わりなき学びの道

- interview with 塩沼亮潤 -

今も信じられない難行、苦行に挑んでいる行者がいる。
役行者を開祖とする、奈良・吉野の金峯山寺に伝わる「大峯千日回峰行」は、
標高差1300メートルの山道を毎日、往復48キロ16時間かけて、
5月から9月までの120日、9年がかりで1000日間、
歩き続けるという凄まじい行である。
行の間は、一日も休まず、途中で止めることは死を意味する。
心身の限界に挑んだ末に、山でみえる世界とはどんなものなのだろうか。
今回は、1300年の歴史で2人目の満行者だという、
塩沼亮潤大阿闍梨にお話を伺った。


塩沼亮潤 Ryojun Shionuma


1968年、宮城県仙台市生まれ。
吉野山金峯山寺で出家得度後、修行と研鑽の生活に入り、
99年、金峯山寺1300年の歴史で2人目の大峯千日回峰行を満行。
2000年には、断食・断水・不眠・不臥を9日間続ける四無行を達成。
2006年、八千枚大護摩供満行。
現在は、仙台市・慈眼寺住職を務める。大峯千日回峰行大阿闍梨。

福聚山慈眼寺 公式ホームページ
http://www.jigenji.net/







B:20代の若者に幸せかと訊ねると、7割の若者が、 現在の生活に満足している、幸せだと答えるという統計があります。 インターネットやコンビニ、ファーストフードなど便利な生活を享受している影響ともいえます。 海外に目を向けても、ギリシャ人の幸福度指数は高いそうですが、 ギリシャ危機があり、今は国が倒産するといわれています。 これらは、「本当は深く考えていないから」、 「何もやらないから不幸ではない」といえるのではないかとも思えます。 大阿闍梨は、苦行を乗り越えた「幸せ」を感じておられると思うのですが、 「幸せ」の違いについて教えてください。 違いというのは、価値観だと思います。 地位、名誉、財産など人間には、いろんな「欲」があります。 しかし、「欲」も人間が生きていくためのエネルギーとして、とても大切です。 たとえば、もっと努力をしようという向上心も欲といえるでしょう。 ただ「我欲」となると問題です。 一つのものを食べても、もっと美味しいものを食べたくなる。 欲しいもの一つを手にすると、もっと欲しくなるというように、 執着すると際限がありません。これはとても不幸なことです。 ですから、今日、ごはんとみそ汁とお漬けものさえ食べられたら 自分は幸せだと心から感謝が出来たら、それだけいつも幸せを実感できます。 与えられた環境の中でいつも感謝をする心、 満たされている心が、本当の幸せではないでしょうか。 人間は誰しも、真理に向かって生きていかなければならない存在だと思うんです。 そこに向かって努力をしていると、いつの日か、自然と安穏な気持ちが すとんと心のなかの収まるべきところに収まる場合があります。 こういう幸せの価値観を、私達は学んでいかなければなりません。 たとえば、経済が困窮してくると、今まで幸せと思っていたことが、 急に不幸を感じて悲観的になってしまうのは、 何か真理とは反対方向にとらわれている場合があるように思います。 私たち修行僧はそこを行によって訓練する訳なのですが、 誰がみても辛いだろうな、苦しいだろうなということが、 全く違う世界観で生活しております。 自分が苦しいことをして不幸だとか、なんで自分だけが、 という思いはまったくありません。 やがて、その体験のなかから少しづつ、いろんなことが見えてきます。 「よく感謝しなければならないな」、「よく反省をしなければならないな」、 「どんなものに対しても敬意を払って生きていかなければならないな」。 こんなあたり前のことが改めて深い世界で分かってくるのです。 しかし考えてみればあたり前のことが、あたり前にできていない。 だから自己を見つめる必要があるんです。


B:「もう一人の自分」というものは、苦行をする中でより明確になっていったのですか? そうですね。 今ここに生かされている自分と、気まま、わがままな自分がいるとすると、 誰でも、気ままわがままな自分のほうに流されて生きているのではないでしょうか?  しかし、それではいけないと誰でも心の奥底では、わかっているのではないでしょうか?  そこで精一杯生きてみようとする。 しかし、初めのうちは出来なくて悩んでしまうとか、 頑張ろうと思っても力がでないという時期があるかも知れません。 それでも、歯をくいしばって辛抱していると、 やがて少しづつ幸福感につつまれる瞬間がある。 だから、“行”はある意味楽しいのです。 しかし一日三度のご飯に、おやつがあり、雨露しのげる家があり、お風呂に入れて、 お布団に入って寝ることができ、そして、それ以上の幸せがあると、 なかなか、自分自身を本質的に見つめられなくなりがちです。 ですから、自分自身を見つめる山での修行の期間は、質素で簡素でなければなりません。 満たされすぎると、不平や不満ばかりで、 天地のなかで生かされている、もう一人の本質的な自分と出合うことは難しくなります。


B:まわりに物がなく、比べるものがない状態だと 一つの物事に集中できる気がしますが、 私たちが、生活の中で苦行のようなものを味わうには、 どのように日々心掛ければ良いと思われますか? たしかに、二十三から三十二歳までの9年間毎年、4ヶ月間、 1日16時間、1300mの高低差を歩かせて頂きました。 みなさんからみれば苦しい修行かもしれませんが、 本人はまったく苦行と思っておりませんでした。 自分自身をつくりあげていく一つのトレーニングみたいなものととらえていたのだと思います。 日々、渾身の力をこめて、自身と対峙して、同じ道を同じように命懸けで行じる日々、 しかし今は、朝起きて、勤行をして、ご飯食べて、 お寺の作務をして、一日を終え、という生活です。 生命の危険にさらされることない日常を過ごしております。 しかし、険しい山中で荒行を行じていた昔と今の情熱を比べたら、 同じか、あるいは、それより上のように実感してます。 それは、心のアンテナの立て方次第だと思います。 朝起きて、一日の生活の中で、いろんな人との出合いがあります。 どれだけ真剣に一つひとつに向き合うか。 また、出合った人に対し、礼儀正しく、心から敬意をはらい、 日々の生活のなかで感謝の気持ちと反省のこころを忘れずに生きる。 たった、これだけでも完璧にしようと思ったら大変なことであります。 要は、自分自身の心の持ち方次第なんです。 環境が厳しくなくても、いくらでも自分自身の心のアンテナは立てられるし、 さらに一歩深く生きることはできます。


B:形をもった行ではなくても、心の中で練っていけば、行となるということでしょうか? はい。 つきつめて言えば、日常の一挙手一投足を人生の行ととらえております。 私たちは、永遠に命が続くと錯覚する瞬間もあるでしょう。 また、いつかは死ぬと頭の中ではわかっていても 「まだ大丈夫だろう」と思ってしまうこともあるでしょう。 しかし、未来はどうなるかわかりません。 未来はとても流動的でありますから、今日という日を大切に、 今というこの一瞬を大切に、一日を一生と思い、精一杯生ききる。 そして、人生を振り返った時に、自分の人生に悔いがなかったら、 とても幸せなことだと思うのです。


B:物事がうまく進まない原因は「我欲」がかかわっていると思いますが、 欲をどのようにとらえていますか? 自分の人生がすべて思い通りになるということはありません。 しかし、私たちは、「ああなりたい、こうなりたい」と思いをめぐらしてしまうものです。 そこに、とらわれてしまい、我の欲のために、 自分中心に物事を考えて行動をしてしまう時があります。 そして、自分の思いが叶わないと、人を恨んでしまったり、妬んでしまったり、 とても下手な生き方をしてしまう時があります。 そんな時こそ、心の中で忘れられないものを忘れ、捨てられないものを捨てて、 今とらわれている執着から離れて、 その欲を、真理に向かうエネルギーに転換してあげることです。 欲が全くなくなってしまったら、よい方向へと努力する気持ちもなくなってしまうでしょう。 善いことをして悪いことをしない、 皆が喜ぶことをしようと感動しながら生きることです。 欲はよいエネルギーに転換することにより、人生が180度変化します。


B:ひきこもりという問題があります。 その人にとって、大きく見えている問題は、 視点を変えれば乗り越えられるのではないかと思います。 なかなか実行に移せない人たちが、 どうすれば一歩を踏み出すことができるのでしょうか? いろんな考え方がありますが、今、頭に浮かぶのは、 幼少期におけるコミュニケーション不足が原因とも言われておりますね。 高度成長とともに生活環境もだいぶかわりました。 都市部に人が集中すると、どうしても目的至上主義の傾向が強くなります。 自己を中心とした思いや行動が強くなってしまい、 コミュニケーションが不足しがちになります。 自分の心のなかにある真心を、 言葉や行動や笑顔に移して表現するということはとても大切なことなのです。 逆にお猿さんは、個体数が多くなればなるほど毛繕いが多くなるといわれていますよね。 毛繕いというのは猿たちにとってとても大切なコミュニケーションなのです。 人間もこういう動物たちから学ぶことはたくさんあるのではないでしょうか?  登校拒否やひきこもりの原因も、幼少期の家庭教育がとても大きいといわれております。 昭和30年代は、ひきこもる部屋なんてありませんでした。 家が小さく、食事も寝るのも皆が一緒の部屋ですから、 とてもコミュニケーションがとりやすい。 それが本当に良い環境だったと言われております。 生活形態が変化した今は現実的には、難しいとは思いますが、 幼少期の家庭教育を最低昭和30年代まで戻すと、かなり状況はかわるかと思います。 本来、10歳までに教えなければならない挨拶や返事をしっかりと教えないと、 大人になってからできなくなる可能性がとても大きいと言われてますが、 今の親たちや学校も偏差値が高ければ良いという教育になってしまっております。 成績が良いというところで評価されてくる。 けれども実際の社会では、日常のところを評価されます。 例えば、時間を守る、言われたことをちゃんと守る、などということは、 とてもあたり前のことですが、家庭や学校の教育で、その大切さを教えていない。 そこで「なんで遅刻するんだ? そんなことは社会人としてダメなことなんだぞ」と叱られると、 今までそういった経験が少ないことから、 はじめて自己を否定され、驚いてしまい内にこもってしまう。 その結果無気力になり、人とのコミュニケーションがとれなくなってしまうようなのです。 今の私があるのは、母や祖母が、人として大切なものを しっかりと教育してくれたからだと思います。 ちゃんと叱るところは叱り、ほめるところはほめてくれました。 それは今でいう暴力やヒステリックではない厳しさです。 叱る時も、親は自分の感情でもって怒ってはいけません。 同じ視線で向き合って、子供から信頼される親でなければなりません。 自分を棚に上げて言っても、子供は親の言うことを聞いてくれません。 親の言うとおりに子供は育ちません。 親の生き方を見て子供は育ちます。 まず親がかわる、大人がかわることです。


B: 仏教は、真理を求める教えだと思います。 真理を真剣に求める人は、日本にもまだたくさんいると思いますが、 そのような人に向けてどういう風に考えたらより真理へ到達する方向にいくのか、 アドバイスをいただけますか? 私はこの日本に生まれて、そして仏教の流れをくむ修験道という教えに縁があって 真理に向って歩んでいこうと日々精進しておりますが、 それぞれにご縁のあった教えから、深く掘り下げていけばよいのではないでしょうか。 真理とは、永遠不変でありますから、 これは仏教であろうと神道であろうとキリスト教であろうと変わらない。 大事な事は、自分がめぐり合った入口から 真理に向ってアプローチしていけば良いだけであって、 入口で優劣を論じる必要はありません。 入口で、こっちが一番、こっちの方がいいと論じる必要もありません。 縁のあった教えのもとに自分が日常実践して真理に近づき、 体得し、具現化することなんです。 例えば「いいことをして、悪いことはしない」という教えがあったとすれば、 その真理を具現化することが、宗教の目的です。 仏教であればお経、キリスト教であれば聖書という道しるべのごとくに実践していくと、 やがて、安穏な境地を得るわけです。 このように単純明快であり、とてもシンプルで難しいことではないのです。 わかりやすく言うと、「道しるべ」が楽譜、そして「入口にいる私」が演奏者です。 楽譜とおりに演奏していくと、真理という「作曲家」に近づくということになるでしょう。


B: お経や聖書は、一種のたとえ話みたいなもので、 行間にあるものを感じる心を育てることが大事なような気がします。 日本の昔話でも大人がみても何か感じるものがあるような気がするのですが、 たとえ話としてしか本には書けないというか、 大阿闍梨の本もそうだと思うのですが、本当に伝えたいことを全部書けるわけでなく、 これは一つの書ける最大の表現をしているだけであって、 本当に伝えたいことはもっと感覚的な世界だったりとか、 もっと微妙な世界だったりするんじゃないかなと思うのですがいかがでしょうか。 これは仏教でいうと、「不立文字教外別伝」と言えます。 真理というものは文字と言葉では表現できない。 文字と言葉には限界がある。 そしてまた法を説いても十人いたら十人、その法のとり方は人それぞれに違います。 なぜかというと、その人の経験、体験分だけでしか理解することができないからです。 ですから、お釈迦さまは「対機説法」をされたと伝えられております。 その人の機根に合わせてわかりやすく教えを説かれたと。


B: 修行をおえられて、ある境地に辿りつかれたと思いますが、 その瞬間は、見える世界が変わるものなのですか? 目に見える世界がまるで別のものに見えるということはありません。 ただ、客観的に自己をみつめたときに、昔、悩んでいたことが、 何であんなことで悩んでいたんだろうとか、と思ってしまいます。 それは、嫌なことや辛いこと、そして悲しいことなど 一つひとつ経験させて頂いたお陰だと思います。 どんなに辛いことがあっても晴れない雨はないように、 心を正して辛抱していると、いつしか心がはればれする時を迎える。 ストレスやプレッシャーをのりこえるからこそ、人間的に大きくなれます。 ですから、見えている世界が変わるのではなくて、自分の心が変わったのだと思います。 そして、先ほど、辿りついたと、おっしゃいましたが、 私は人生の終わりにはまだ辿りついておりませんので、まだ途上です。 日々真理と離れないような生き方をして生きようと、精進の日々を過ごしております。 私は、たまたま縁があって山の行を体験させて頂きましたが、 世の中には危険な荒海に命懸けで漁に出かけたり、 とても危険なお仕事をされている方がたくさんおられますので、 私達、お坊さんは、まだ守られた場所での生活になります。 だからこそ日々精進を忘れてはいけません。


B: 宮沢賢治の「世界全体が幸福にならないうちは、個人の幸福はあり得ない」という一文が、 幼い頃から印象に残っていたそうですが、 現在の世界の状況にすごく心を痛めていらっしゃるのではないかなと思います。 そうですね。 やっぱり自分がお坊さんになったのは、そういうことを真剣に考えていかなければならないために、 この世に来たのではないか、生を受けたのではないかな、と思います。 縁に従って、自分も徹底的に世界全体の幸福を皆で研究したいなと思っているんです。 世界の平和を願わない人など、どこにもいないと思います。 しかし、現実はお互いに感情をぶつけ合ったり、人と人、国と国の争いが後を断ちません。 何故、私達がこうなってしまったのか、そして、人と人がお互いに思いやって、 仲よくくらせるようになることを、皆で研究していかなければなりません。 対立から協調の智恵でもって、皆で学んでいかなければならないと思います。


B:本当に研究しないと何ともならない。思想だけじゃできない気がします。 私達を真理の方向に導いてくれる宗教観また歴史観などを通じて、学ぶ必要性があります。 そして、排他的独善性のない考え方が大切です。 私は日本にある和の精神、そして、この東北の人たちの心のなかにある、 あたたかいものに何かヒントがあるように感じます。


B: 本当に変だと思います。 平和とかなんとか言いながらも、明らかに戦争などを起こしてますから。 私達の住んでいる日本は海に囲まれておりますから、今まで守られてきました。 しかし実際、海外に行ってみると、とても危険な地域がたくさんあり、 日本人の常識は非常識ということが理解できます。 まずは、私達日本人も、日常から見つめなおして、 世界の平和に貢献できる考え方などを学ばなければなりません。


B: 真理とは何かということも含めて、皆が少しずつ変わらないと、 そういう方向にはいきませんね。 現代は、頭で考えてばかりいて実践が伴っていないような傾向があるような気がします。 理論も大切ですが、実践が伴ってこそはじめて真理というものが具現化されます。 私のご縁があった修験道も「実修」「実験」を重んじます。 まず自らが実践してそこから験(しるし)を得る。 大自然のなかに入り自己を深く見つめ、大自然と自己をてらし合わせて、 そこから頷きとってくるという教えです。 ですから、基本的に師匠からはほとんど何も教わりません。 山に入る許しを得て、その期間精進して真理に近づこうとする宗教です。 とてもシンプルでお釈迦さまの説かれた仏教にとても近い感じがします。 肉体的にも精神的にも苛酷な修行期間となり、 時折、極限と表現してもよいくらいの環境に追い込まれる場合があります。 そうした時にどういった精神状態になるかといいますと、 自己の至らなさに気付き、よく反省し、心からの懴悔をしている自分がいます。 たとえば、ふと目にとまった一輪の花があったとします。 誰に見られるという意識もなく、ただ天に向かってきれいな姿で咲いている。 そして、その美しさに、修行でつかれきった私の心をなごませてくれる。 さて私は、自分の周囲の人たちに、どんな影響を与えているのだろうと……。 そう深く反省して一年の修行の期間を終えて里に戻ってくると 山で感じとったことが素直に実践できない自分がいる。 大自然はとてもきれいです。 そして、いろいろな感情をもった人がいないので、とても素直になれるもの。 しかし、里ではいろいろな人とのかかわりあいによって成り立っていますので、 人間に苦を感じてしまうことがあります。 これではいけないと、また、山に挑んで自己を見つめてみる。 天地によって生かされている本来の自分と、 気ままわがままな自分を深く見つめてみることにより、だんだんと心がととのってきます。 そして、少しづつ、山の中で感じとれたことが、里において実践できるようになってきます。 まさに実修実験の中から学びを得る教えなのです。 ですから私の師匠は、はじめのうちは知識をつめこまない方でした。 山で感じ、そして里におりて実践し、自分のものとせよということなのです。


B: 修験の本当の実態は私どもには全然わからないわけですが、 役行者が開祖して、江戸時代の天海が少し力を弱めたという イメージでとらえたらよろしいのでしょうか? 修験の発祥は今からおよそ1300年前になります。 開祖役行者は難行、苦行の末、衆生済度の本尊、蔵王大権現を感得して、修験道の本尊としました。 役行者の説いた真理の世界観は、それまでの奈良仏教とは違ったものの、 当時の民衆から多くの支持を受けて、大きく成長しました。 しかし、それはとても難しい教えではなく、とてもわかりやすくシンプルなものでした。 その後、密教が日本に流入して深く修験と融合しましたが、 本来は大自然の中に入って、大自然という極めて真理に近い世界のなかから 自己の心を照らし合わせて、反省し、悟りを頷きとってくるという教えなのです。 しかし、時の為政者からは、とても人気の高い修験道は何か脅威の念を抱かれておりました。 当時民衆の心の支えとなり、煽動したりする宗教は権力者たちにとっては、嫌な存在だった訳です。 かといって、修験を廃止するなどしたらかえって民衆から反ぱつされてしまう。 そこで、家康は徐々に修験道の力を弱めようとして、 芝居や戯曲でもって、悪い印象を与えていこうとしました。 そして、宗教の力を根本的に弱めて、弱体化させる為にとったものが、檀家制度でした。 その制度によって、お寺に安定した収入が入ってくることになります。 それまでは修行をしっかりとして、勉強しないと、 そのお寺に人々が集まってこない訳ですから、宗教者は必死です。 所謂、布教の自由競争があったので、人気のないお寺さんは宗教活動が出来なくなってしまいます。 ですから、昔の仏教はお釈迦さまが説かれた生きた仏教だったといえるでしょう。 人としていかに生きたらよいのかという迷いに対し、その道標となる教えでした。


B: 徳川家康が行ったんですか? 家康の懐刀と言われた天海僧正と考えたと言われております。 又、寺は幕府の手先機関のような存在となり、 通行の手形の発行や住民の管理などを代行しました。 こんなことを300年間も続けられましたので、 今でも修験というと悪いイメージをおもい浮かべる人がいるのでしょう。


B: 安定しすぎてしまうということですか。 仏道修行者は、道心のなかに衣食ありといい、 道を求むる心があらば、自然と衣服も食物も授かるものだという教えなのです。


B: 最後になりましたが、人生のなかで大切にしていることは何なのでしょう。 まずは、品格です。 今日お話し致しましたように、 世間とかけはなれた難しい修行も経験しましたが、 何の為にするのかといいますと、 日常の生活がちゃんと出来るようになる為の学びなのです。 例えば、「ありがとう」という感謝の気持ちひとつにしても、 この世に生きているだけでも、有難いことである。 大きな幸せばかりでなく、ほんとうに小さな幸せにも心いっぱい感謝の心でもって、 言葉と、行動にうつして、まわりの人に表現する。 とても簡単なことですが、これすら、出来る時もあれば出来ない時もある。 こういうこと、ひとつひとつが出来るようになって、 はじめてその人に感じられる上品さや品格が内面からにじみ出てくるのです。 謙虚であり、素直でなければ、 自分の心を反省という方向にむけることだってできません。 何で、どうして、私だけが、というように不満ばかりがつのり、 人を妬んだり、憎んだりしてしまう危険性もあるのです。 そんな下手な生き方をしないためにも、 常に心のアンテナを真理の方向へと向け続けていなければなりません。 そして、どんな人も敬う気持ちも忘れてはいけません。 自分自身を大切にしたかったら、 先づはじめに、他人を尊重しなければならない。 他人を尊重することにより、はじめて他人から敬意の念をいだかれる。 こういった、人として大切な礼儀をわきまえなければなりません。 この礼儀というルールのもとに、 人と人との縁が授かり人生につながっていくのです。 一代で何かを成し遂げた方や、多くの方から慕われている著名な方とお会い致しますと、 皆さんとても謙虚であり、気くばりが出来ておられる方ばかりです。 やはり、天地の道理にかなった生き方に縁が広がりをみせ、 そして人生が光ある方向へと自然と運ばれてくるのでしょう。 よく皆さん、運がいいとか悪いとかいいますが、 すべて、心の方向が光ある方向に向いているかいないかです。 結局は自分の心がけ次第なのです。 与えられた環境のなかで、少しづつ自分を深く掘り下げて成長するだけだと思います。


B: どうもありがとうございました。



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