チベットまでの距離

- interview with アジャ・リンポチェ -

「チベット仏教」という言葉を耳にしたり、興味はあるものの、
他の仏教との違いや、具体的なイメージが沸かない、
という人が多いのではないか。
自身の国の存在を脅かす力に対して、非暴力で抵抗を続けることは、
平和の国に暮らす私たちには、想像を絶する精神力が必要だろう。
彼らの宗教観はどのようなものなのか。
今回、チベット仏教の重鎮とされる活仏、
アジャ・リンポチェにお話を伺うことができた。
彼の眼にはチベットの歴史、またその将来はどのように映っているのだろうか。


アジャ・リンポチェ Arjia Rinpoche


チベット仏教ゲルク派の高僧。モンゴル人遊牧民家庭に生まれ、
2歳でゲルク派の創始者ツォンカパ大師の父である
アジャ・リンポチェ8世の転生活仏として認定される。
クンブム寺の僧院長として育てられ、
ダライ・ラマ14世やパンチェン・ラマ10世などから直に仏教の教えを授かる。
1998年にアメリカへ亡命。
カリフォルニア州に慈悲と智慧のチベットセンターを創設し、
現在はインディアナ州にあるチベット・モンゴル仏教文化センターの
センター長として仏教の教えを広め、宗教の枠を越えた平和活動を行う。


ジェフ・クラーク Jeff Clark
1970年に留学生として来日し、
1991年から2003年には神智学協会ニッポン・ロッジの代表をつとめる。
H・P・ブラヴァツキーの著作『シークレット・ドクトリン』ほか、
近代神秘主義にまつわる数々の書籍の翻訳を手がけている。
一方で、チベット仏教ゲルク派の活仏アジャ・リンポチェに師事し、
モンゴルでゲルク派修道院を支援するなど、
さまざまな角度から真理を探求している。








インタビューに入る前に…… チベット仏教・密教とは どのようなものなのでしょうか? インド仏教からチベット仏教へ 釈迦によって誕生したインド仏教。 1700年あまり続いたとき、勢いのあったヒンドゥー教に押され、 イスラーム軍の攻撃を受けて滅亡しました。13世紀の初頭のことです。 しかし、インド仏教の前途を見定めた優秀な僧侶たちは、 チベット高原へと向かい、新天地で「後期密教」を誕生させたのです。 チベット仏教は、インド仏教から後継者として バトンタッチされたようなものだといえるでしょう。 チベット仏教とチベット密教の関係チベット密教は、 チベット仏教に含まれていて、その一部だといえます。 チベット仏教は、公になっている学習する顕教と、 体験で理解する密教から形成されています。 順番でいうと、顕教→密教の順に誕生しました。 ゲルク派の密教修行は、顕教修行を徹底的に学び終えていることが 必須だといわれています。 ゲルク派開祖ツォンカパとアジャ・リンポチェとの関係 ゲルク派、カギュー派、サキャ派、ニンマ派の4つに分かれているチベット密教。 近現代では,ダライ・ラマも属するゲルク派が、チベット最大の宗派となっています。 ゲルク派の開祖の「ツォンカパ」(1357〜1419)は、 顕教と密教の統合を重んじた人物で、彼ほど優秀な人物はいなかったとされるほど。 彼の構築した体系は壮大です。 ツォンカパは、中観思想こそブッダの本意であると認識していました。 このツォンカパを地位の頂点とした時、その下には、 「ダライ・ラマ」「パンチェン・ラマ」 「ハルハ(現在のモンゴル国)のジェプツンタンパ」の3名の活仏とする僧侶が存在し、 さらに、その下に8名の僧侶がおさまるのですが、 今回、インタビューしたアジャ・リンポチェは、この8名のうちの1名です。 生まれ変わりの後継者を探すという「転生活仏」の制度をとっており、 ダライ・ラマを初め、高僧が亡くなると転生し、 その「魂」は継承されていくといわれています。 ツォンカパ自身は、転生しない唯一の人物です。 アジャ・リンポチェは、ツォンカパの父親の転生者として、 幼い頃に見つけられた人物なのです。 チベットと中国の歴史 1949年、中華人民共和国成立後、西洋諸国からの解放を名目に 人民解放軍がチベットに侵攻しました。 1959年、チベット騒乱事件が起こり、 中国軍との衝突によって何千ものチベット人が命を落とします。 これを契機に、ダライ・ラマを中心とした8万ものチベット人がインドへ亡命し、 北インドのダラムサラの土地にチベット亡命政府を樹立。 今日においても、チベット独立、チベット人の人権と自由を求めて、 世界各地で平和運動が続いています。 アジャ・リンポチェ師インタビュー
B:読者の方には、あなたがなぜアメリカへ亡命されたのか知らない人もいます。 チベットからアメリカへ亡命された理由を教えていただけますか? アジャ・リンポチェ(以下、A):パンチェン・ラマ10世は、1989年に亡くなりました。 そのため、ダライ・ラマ14世を中心とする亡命政府の人々は、 11世のパンチェン・ラマを探しはじめ、生まれ変わりの子どもをみつけましたが、 中国政府は、その子を認めませんでした。 そして、1995年、中国政府が自分たちで探した子どもを パンチェン・ラマ11世として主張しました。 中国政府は、私に自分たちの認めたパンチェン・ラマ11世を認めてもらうだけでなく、 パンチェン・ラマ11世の主な指導者、家庭教師、導師となるように圧力をかけてきたのです。 それが私が亡命した理由です。 私の叔父にあたるギャヤック・リンポチェは、 パンチェン・ラマ10世の師であると同時に、私の師でもありました。 私は中国政府に強制労働を強いられたのですが、 叔父が近くにいたので、いろいろと指導してもらいました。 指導の内容は、仏法や伝統、祈りや儀式など、全面的なものです。 中国政府は、導師をコントロールできれば、 パンチェン・ラマもコントロールできると考えていたのです。 私は、モンゴル系の血が入っています。 ギャヤック・リンポチェもモンゴル系ですから、 少しチベット社会の本流と離れているので、 操りやすいという打算があったのでしょうね。 だから、中国政府は私を11世の師に任命したがったのではないかと思います。


B:なぜ、チベットから遠く離れたモンゴルに、 転生者は生まれてくるのですか? A:もともと、雲南や新疆、甘粛など、5つの省区は、 大きい意味でチベットでした。 そして、国境はなく、いろんな民族が一緒でした。 遊牧民ですし、彼らは移動します。 歴史の中で征服されたり、征服したり、 モンゴル人がチベットに侵入した時もありました。 今の境界線で言うチベット自治区や内モンゴル、モンゴル共和国の範囲は、 長い歴史の中で、常に移り変わってきました。 3代目ダライ・ラマはモンゴルのアルタイ・ハーンと縁があり、 4代目ダライ・ラマはモンゴル人で、 5代目ダライ・ラマはモンゴル人ではありませんでしたが、 モンゴルに味方し、モンゴル軍を使って敵軍を抑えました。 このように、もともとチベットとモンゴルは関係が深かったのです。 モンゴルの王たちは、ダライ・ラマに自分たちが征服した土地を捧げました。 例えて言うと、ダライ・ラマやパンチェン・ラマは師匠であり、 モンゴルの王たちは彼らを守る保護者のような存在でした。 このような歴史があったので、 今のダライ・ラマの制度は、最初からモンゴルと縁があったのです。 ダライ・ラマもパンチェン・ラマも、ゲルク派です。 ゲルク派の開祖であるツォンカパは、チベット北部のクンブンに生まれました。 ツォンカパは片親がモンゴル人、片親がチベット人と言われていますが、 この伝承は古くからあったわけではなく、後年できたものです。 この慣習を見ても、モンゴル人とチベット人が近しい関係にあったことがわかります。 チベットには5つの宗派があります。 仏教のニンマ派、ゲルク派、カギュー派、サキャ派、それにシャマニズムであるボン教です。 ゲルク派はその中でも一番新しいものです。 ゲルク派は後年、チベットに大きな影響力を持ちました。 ダライ・ラマもパンチェン・ラマもゲルク派に属しています。 ジェフ・クラーク(以下J):私が以前リンポチェからうかがった話なのですが、 仏教はチベット人のものだけでなく、 いろいろな地方や民族のものとなって根づいています。 仏典には、チベット語、中国語(漢文)、パーリ語の3つの言語があります。 パーリ語の仏典は南方の小乗仏教に、 中国語(漢文)の仏典は大乗仏教に伝わっています。 中央アジアの密教は、チベット語で伝えられました。 このため、中央アジアの密教がすべてチベット仏教だと思われていますが、 実際はチベット人だけのものではありません。 モンゴル人にも偉大なお坊さんが多くいらっしゃいます。 今でもモンゴルの仏僧はチベット語を学びます。 また、モンゴルの仏典もあります。 これは、西の方でキリスト教もラテン語だったのと同じように、 密教はチベット語がメインです。 逆に、チベット人でモンゴル語を勉強する人はあまりいないです。


B:ツォンカパのお父様は転生者でいらっしゃるそうですが、 ツォンカパ自身は転生していません。 ゲルク派のツォンカパの後継者はどのように決まるのですか。 A:ツォンカパの出生以前から、 転生によって後継者が決まるという伝統が、すでにありました。 13世紀ぐらいには、そうした伝統が存在していたと思います。 こうした決め方を受け継いだ伝統もありますが、 ツォンカパが築いたゲルク派の伝統はそうではありません。 ツォンカパは転生によって後継者を決めるのを良しとしなかったのです。 ゲルク派の後継者は学問をどの程度身に付けたかによって決まり、 ツォンカパと同等の学識レベルに達した弟子が位を継承します。 チベットのラサには3つの大きな僧院があります。 これらの僧院の最高位にある人々は、 ツォンカパの地位の継承権を持っているとされています。 この制度は大変複雑で、私自身すべて把握しているわけではありません。 現在、学問をあるレベルまで成就した継承権保持者は百人あまりいます。 102代目の僧が今、地位を継承し、 103代目のツォンカパはもう7、80代という高齢ですが、 継承の時期が来るのを待っています。 ツォンカパは、学識が大変深く、誰でも理解できる形で教えを伝えました。 転生でいうと、ダライ・ラマやパンチェン・ラマは、 ツォンカパの愛弟子たちの生まれ変わりだとされています。 そのほかにも、ツォンカパの父親や母親の生まれ変わりもいます。


B:ツォンカパはどんな方でしたか? J:ツォンカパのような偉大な人物は、 何百年に一人生まれるか生まれないかぐらいの逸材ですよね。 A:ツォンカパはゲルク派をはじめた人物ですが、 それぞれの宗派をつくりだした僧には興味深い逸話があります。 たとえば、インドのニンマ派を創始したパドマサンバヴァ(ぺマ・サンバヴァ)ですが、 空を飛んだり、荒ぶる神々を鎮めたり、 鬼を退治したりという伝説や逸話が残っています。 また、カギュー派伝統や聖者アティーシャなどの逸話も残っています。 一番新しいゲルク派は600年前のものですが、 当時、チベットは少々、混乱の中にありました。 それを整理したのが彼で、学問の制度、出家や在家の役割、 僧院の体制などを改革したのです。 その後、ダライ・ラマやパンチェン・ラマなどの偉大な僧が チベットやモンゴルで、とてもパワフルな存在になりました。 そして、彼らすべてがゲルク派を受け継いだのです。 チベットには時々、パワフルな存在が出てきましたね。 特に4つの宗派が有名です。 もちろん他の3つの宗派やボン教も存在しつづけたのですが、 ツォンカパ以来は、政治や他の面でも影響力があるのは、ゲルク派が圧倒的です。 ツォンカパのまわりにもさまざまな逸話がありますが、証明する方法はありません。 私自身や私の伝統の話をしましょうか。 私はクンブム寺では8番目の院長です。 8代目までの出生や出身地などはわかっています。 私の宗派では、それ以前の僧たちの出自を明らかにするべく、 ブッダの時代にまで遡り、誰が誰の生まれ変わりであるかを特定しようとします。 それでいうと、私は21代目なのですが、 実在している僧で数えると、8代目なのです。 つまり、こういうことです。 アジャ・リンポチェは初代のリンポチェで、とても優れた方でした。 大変偉大であったために、周囲の弟子たちは、 彼の生まれ変わりを何人も探しだしました。 2番目の転生者も有名になると、 当時の皇帝たちはこの僧にも何かタイトルを与えるべきだと考え、 「フフト」などの地位を授けるようになりました。 中でも優秀な人物をクンブム寺の院長にしました。 3番目の僧が院長になり、4番目の僧はチベットで大変有名になりました。 そうすると、人々は彼らの生まれ変わりも探しだし、 その数が21人にまで増えていったわけなのです。 初代アジャ・リンポチェ以前の転生者は 釈尊の弟子やツォンカパの父親のように伝説的な人物が多いです。 転生者の話は、伝説だけではなく、一種の儀式にもなってしまいました。 J:師もそうですが、県知事のような役割を務めた僧もいらっしゃいました。 A:6番目は1901年、明治時代に来日しました。 研究者の寺本婉雅氏が彼を招聘したからです。 彼は来日して東京や京都を訪れ、明治天皇にも謁見しました。 私は自分の属する宗派についての講演を大谷大学でしました。 大谷大学には、寺本婉雅氏が収集した資料が沢山収められています。 彼はチベットに行き、1年ほどアジャ・リンポチェの寺に滞在し、研究をしました。 私は釈尊の時代から数えて21代目です。 たとえば、ダライ・ラマは現在14代目ですが、私たちの伝統で言うと、 釈尊の弟子の時代に遡って数えなければならないのです。 初代の前は誰だったかということを突き止めます。 6代目のアジャ・リンポチェが来日した時の写真もあり、 大谷大学にはアジャ・リンポチェを研究している先生がいて、 本も出版されています。 120年前に6代目のアジャ・リンポチェが京都へ講演に来て、 その後、私もこうして講演したというのは奇遇ですね。


B:震災後もそうですが頻繁に来日されていますね。 A:小さい頃からクンブム寺で日本の写真や品物を見てきたので、 馴染み深いものがあります。 寺本さんたちがチベットまでいらした時に下さったお土産や、 明治天皇からの贈り物を目にしてきたのです。 毎年、お正月にこれらのお祝いの品々や写真が展示されていました。 その写真の着物姿や、かぎタバコ、 そしてガラスの小窓を覗くと写真が立体的に見える仕掛けの箱などです。


B:展示品は日本だけでなく、他の外国諸国のものもありましたか? A:いえ、すべて日本のものでした。 有名な観光地の写真があり、富士山の写真を覚えています。 1901年には日本の新聞には写真がなく、スケッチでしたが、 6代目のリンポチェも載っていました。


B:さて、チベットでは僧侶や遊牧民の焼身自殺が多いですが、 どのようなことをしていけば、 このような自殺を減らすことができるとお思いですか? A:こうすれば良いということを言うのは難しいですが、 よく私がメディアに対して話すのは、 中国政府が政策を変えるべきだということです。 もしも政策が正しければ、このような悲惨で痛ましい状況を招くことはないはずです。 外国諸国が中国政府の政策に関心があれば、 圧力をかけるなどの働きかけができるはずです。 それが私の希望ですが、具体的な方法はわかりません。 論争を起こせば良いというわけではないと思います。 友人に何かを忠告する時のように、 友好的に提案することもできるはずです。 ただ、これをすれば解決するというような簡単な問題ではないと思います。 政府が変わるのではないかという期待はあります。 現在と30年前の状況を比べても、中国は変わりました。 でも、他の自由諸国と比べると、まだ変わるべき点は多くあります。 中国とビジネス上の取引をしている国々は、 政治のことにあまり口出しをしたがりませんが、 もっと声をあげるべきだと思います。 中国になにか肯定的な変化があった場合は、 それも表現し、ほめるべきでしょう。 影響を与えられる立場にいる国が働きかけをすると、 何か肯定的な変化が起こる可能性があります。 つい先日、ダライ・ラマの写真を自宅に飾ることを 中国政府が認めるという報道がありました。 事実関係についてはまだ確認していないのですが、 このような良い変化が起こった場合は、歓迎の意を表現するべきです。


B:ご自身が辛い過去を乗り越えられて、 希望を持って前向きに生きてこられました。 人間一人ひとりが個人としてバランスが取れたときに、 世界のバランスも取れてくるのだと思います。 怒りを手放したり、許したり、希望を持つためのアドバイスはありますか。 A:中国での大躍進政策(1958-1960)や文化大革命(1966-1976)の時代には、 他に選択の自由はなかったのです。 また、その時代が私の師となって、慈悲や許し、忍耐など、 乗り越えるべき課題を与えてくれました。 そして、後々、実践の糧になったのです。 一番大切なのは、正しい動機や考え方を持つことです。 そうすれば、慈悲や思いやりの心などを実践するのはたやすくなります。 慈悲や思いやりの心を口で言うのは簡単です。 でも、実際に何かが起こったときに自分の心を制御するのは、 正しい動機を持ち、練習の機会を持っていないと容易ではありません。 また、私の周りには優れた師が大勢いました。 彼らの姿勢から多くを学び、自分も実践できるという自信がつきました。


B:今、モンゴルにガンの子どもを対象にした医療センターを設立中と伺ったのですが、 どのようなことを目指していらっしゃいますか。 A:仏教徒として、瞑想や祈りだけでなく、 何らかの行動を起こすことが重要だと思うのです。 ですから、私がチベットにいたときには、 寺に赤十字の事務所を設立しましたし、 どこかの村に学校が必要な場合は、学校を建設したり、 僧侶を派遣してお金や食べ物を寄付したりしました。 天災が起こった際は、僧侶を救助に向かわせます。 1998年に亡命した後は、 チベットに戻ってそのようなことをする機会はなかったので、 ダラムサラや南インドで、寺で菜食を推進するべく、 豆腐プロジェクトを立ちあげました。 その後、2009年にモンゴルに行き、 ガンの子ども向けセンターの設立に関わったのです。 J:モンゴルでは大気汚染などの社会問題が増えています。 これまでは検査センターさえなかったのです。 白血病の子どもが親子離れ離れにならないよう、 親と一緒にいられる設備を設立しようとしています。


B:チベットの将来をどのように捉えていらっしゃいますか。 A:特にアムド地区では、若者たちはとても活動的で、 社会奉仕、チベット文化や言語の継承に力を入れています。 チベット語を使って、中国版のFacebookと言われる 「ウェイボー」(微博→MicroBlog)などでメッセージを発信したり、 チベット語のブログを立ちあげています。中 国政府の政策や圧力を気にかけていない若者たちです。 若者との世代間ギャップはありますが、 こうした若者は文化や言語を守ろうという姿勢を持っています。 ですから、私はチベットの将来について楽観的です。


B:3・11の震災の際、インディアナの寺で仏教徒だけでなく、 さまざまな宗教の人々が集って 法要を行ったという話を伺ったことがあります。 有事には宗教の垣根を越えて、団結しようという意図があるのですか。 A:日本は私にとって、とても大切な存在であるので、 私たちの行いや理念に基づき、 また心の底から、何か法要を行いたかったのです。 日本の東北大震災だけでなく、ハイチの震災の後も、 さまざまな宗教の人々を集めました。 同じ宗教の人々だけが常に集うとなると、互いに距離が縮まることがなく、 自分の宗教に固執してしまいます。 2008年の四川の地震の後も、 普段は対立した意見を述べている中国政府のグループの人々をイベントに招きました。 有事にこそ、異なる宗教の人々が垣根を越えて一同に会し、 対話やコミュニケーションを取り合う、良い機会だと思うのです。 形ではなく、ハートから行動をすること、 相手を理解することが大切だと思います。


B:どうもありがとうございました。



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