まず人間を生きる―虚構からの自立

- interview with 鈴木崩残 -



「我々は、そして宇宙は、万物は
一体、何のために存在しているのか
あるいは、宇宙や万物が
あたかも存在するかのように見える
それを見てるこの意識とは
何のためにあるのか?」

自らの内に湧きあがる“なぜ?”を原点に
虚構の世界の裂け目から
赤裸々な現実の姿を
ありのままに見つめ続けてきた
無明庵、鈴木崩残氏にお話しを伺った。




鈴木崩残 Houzan Suzuki


1958年東京生まれ。
某・美術大学絵画科、中退。
デザインや出版業界での勤務を経て、
1995年より無明庵として執筆と出版を手がける。
1994年に『ひきつりながら読む精神世界』
『廃墟のブッダたち』の一連のシリーズの
編集と出版を手がけたのちに、
1995年以後、独自の視点からの作品を執筆。
著書に、『いらない親』『分割自我復元理論』
『宗教に汚染された地球人』『性恋愛教本』他、多数。
音声によるCD『何が問題なのか?』
『足元の宇宙風景』『はじめての無明庵』がある。


無明庵 公式サイト:
http://www.mumyouan.com/

書籍一覧:
http://www.mumyouan.com/i3.html







B:はじめてお会いできるということで、 とても緊張していました。 なぜですか?
B:多分、読者の方もそうだと思いますが、 変な質問をしたら詰め寄られて 逆に質問で斬られてしまうのではないかと(笑)。 皆さん、そういう印象なんですかね(笑)。 もしも私がデレデレ顔で猫を撫でていたら そうは思わないんでしょうね。 さて今日は何から話しましょうか。 回さんの今までのインタビューを拝見しますと、 錚々たる人たちですよね。 でもうちはクセもあるし、 こんな行儀の悪い発行元になぜ取材を?  というところから 逆に私が質問するところから 入りたいと思いまして(笑)
B:90年代から無明庵の書籍を扱わせてもらい、 いつか取材をという声は内々でありました。 人生の問題に向き合うための 実践的で具体的なヒントを真摯に、 厳しく、読者に突きつけつづける活動には、 ぶっちぎりのオリジナリティーと 既存の枠に囚われないバランス感覚を感じます。 多くの読者にとって耳が痛いであろう「お叱り」も、 本当の意味でのやさしさだと思います(笑)。 無明庵の基本的なスタンスとしては、 精神世界的な現象はすべて在るとした上で、 どれがその中でとりわけ重要と思えるのか、 また、どれは疑問を私たちの前に提示しているのかを、 突き詰めてきました。 無明庵というのは、発足の当初から 精神世界の難民キャンプみたいなところがありました。 あちこちの宗教や体系を渡り歩いて、 辿り着く人も多かったです。 私自身は、その理由については、よくわかりません。 おそらくですが、ごく普通に人々が、 精神世界のある面を見ていて、 変だと思ったり疑問に思ったことを そのままぶつけるような文を 書籍や掲示板に書いたためだと思います。 あともう一つは、読者というお客様を、 ちっとも大切にしなかったところかもしれません。 いえ、大切にしなかったのではなく、 すごく大切にしてきたつもりなのですが、 だからといって言いたいことを言わないとか、 おだてるということを全くしなかったので それが理由で、どんどんと人が離れては、 入れ替わりました。 普通、精神世界をビジネスとしてやっているところ、 ビジネスとして利用しているところは お客が逃げ去るようなことは、 直接には本人に言わないものです。 言うとしても、遠まわしな言い方をして、 会や代表者が、自分たちの評判を 下げないようにしています。 その点では、うちは、何でもかんでも、 思ったままを個人にも言うので、 どうしようもないほどに、 口が悪い時期もありました。
B:無明庵では一貫して 悟りや覚醒体験に対して 慎重な厳しい見方をされています。 「覚醒」とかその手の用語は、 あまり好きな言葉ではありませんね。 意識が変化して悟ったとか、覚醒したとか、 いろんな人がいろんなことを言います。 では、それが日常生活の役に立つのか、 人間個人、特に他者の幸せに関係するのかというと、 私は関係しないと思っています。 例えば、地球を宇宙ステーションから見るとします。 肉眼で見ると、地球自体はすごく穏やかで、 別に何も問題がないように見えますよね。 もし悟りの意識から見れば、 そんな感じかなと思うんです。 だから皆さん 「全然あるがままで問題ないです」 と言ってしまう。 ただ、それは宇宙ステーションから見ている地球であって、 私たちが知っているのは、ズームインしていった先に、 国境が見えてきて、戦争をしていて、 一軒の家の屋根まで来て、 中に入ったら喧嘩をしていたり、虐待していたり、 地獄絵みたいな不幸がある。 抽象的に宇宙を見て何かを悟ったとしても、 フォーカスをもう一回、 私たち人間の生活の現場の苦しいものに当てたら、 何の救いにもならない。 悟りとは何かと言ったら、 宇宙を外側から見るぐらいに カメラのアングルを引いただけの話。 ある意味で、普通に知覚している現実とは 橋が架からない世界だと思います。 意識のフォーカスによって認識が変わるという この問題はすごく厄介です。 こうやって私たちが喋っていると、 静かで平和な時間がここにあると 私達は勝手に思っているけども、 逆にミクロの世界では 私達が今座っている畳の中にいる虫たちは えらい騒ぎになっているかもしれないわけです。 どこの視点にいるかの違いです。 だから悟った意識は 正しいことを言っているとかいうのは、 何か違うなと思うんです。 トークCD『何が問題なのか?』で取り上げた スティーブン・ノーキスト氏など 意識の変容経験をした人はたくさんいますが、 多分、それぞれに悟りの内容も違うと思うんです。 これは一番理解されないだろうなと私が思うことは、 その経験に入った時に、 「結局、生命も物質も必要なかった」 と感じる場合があるということです。 充足した至福がそこにあるのに、 なぜ物とか生命活動とか生き物ができたのか?  私たちは物があるのが当たり前に思ってるけど、 何もはじまらなくて、 正しかった世界というのを経験する人がいるんですね。 物も生命も必要がないというのを 体験した人の言葉は理解するのが難しいと思います。 それを言われたら、この世界が無意味になってしまう(笑)。 でも、先ほど言ったように 極限的に意識の視点を引いて見た世界では、 それこそが現実になってしまうので、 瑣末なことはどうでも良くなってしまう。 だから、いろんなことを、いろんな人が言うけど、 結局、自分が理解しやすいもの、 親近感をもてるものを楽しむのが一番いいと思います。
B:楽しむことであれば 万人に道はひらかれていますね。 悟りを体験するとしないでは 実生活で変わってくることはあると思いますか? 変わるか変わらないかでいうと、 変わるのは確かですが、果たしてはたから見ていて、 私たちの社会基準でいわゆる良い人になったかどうか、 それは別問題だと思います。 どっちに転ぶかはわかりません(笑)。 本人がただ遠くから何かを見た、 人間の枠の外から人間を見た、 物質の枠の外から物質を見た、という体験に過ぎないので、 社会的なものとどうしても噛み合わず、 そこと人の生活の間にはものすごい距離がある。 結果的にうまく噛み合う人もいれば、 噛み合わなくなってしまう人もいます。 例えば、グルに会いにいくような人を見ていると、 結局、その動機は品定めなんです。 「こいつはどうなのかな?」と様子を見に来る。 どこか動物園の動物を見に来るような印象があって、 本物か、本物じゃないかといろんな興味がある。 結局、その人たちが既に信じている見解への 同意をほしがっている、ということがひとつある。 もうひとつが、その人たちの興味があることで 知らないことについて話してくれる人とか、 または自分の意見とそう違わないで 自分が安心できる人を基本的に求めているんですよね。 ラマナ・マハリシみたいなどこかの聖者が座っていると、 質問者が来て、いつも同じこと言って、 延々、分かる側と分からない側が分離したままで、 教祖みたいに祭り上げられ、神格化されて、 西洋人が集まって、おかしなことになっていく。 そういう現象を見ているうちに、 この人たちは別に原初的な意識を経験したいのではなくて、 もっと違うものを見たがっているんだと、ある時に思いました。 見ていると、皆さん、相当の確率で機能不全家族の出身なんです。 遊び相手が欲しかっただけとか、 普通にものを話せる友達が欲しかったとか、 普通に……ごくごく人間的なものに 飢えていただけなんですよね。 そこの部分に不満を持ったまま精神世界へ行っても、 ろくなことにならないし、相手が悪ければ騙されてしまう。 では、なぜ人としての基礎的な部分が こんな風になってしまったのかです。 古い時代は知りませんが、近年の様子を見ていると、 これは普通の生活で満足してないから 精神世界に惹かれていく。 でもそれは昔の命がけだった修行者に対する すごい冒涜だと思いましたよね。 それは「一発逆転」を狙うエゴだと 私はよく言いますが、 うまくいかないものを別の方法でというのは 違うんじゃないかなと思います。 いきなり意識が変わって世界が違って見えたり、 わけのわからないことを喋りはじめて人の注目を浴びる、 そんなものになぜ憧れるのかと言えば、 いかにその人たちには自分の居場所がなかったか、 ということです。 ごく普通に恋愛して、 ごく普通に喜怒哀楽を発揮する、 そっちの方がよっぽど重要です。 そこで最初の問題はセックスの問題だと思ったんです。 普通に話せるはずのものが、 なぜ社会の底辺の汚いものみたいに 扱われなきゃならないんだ という疑問も溜まっていました。 たまたま、私自身が、若い頃から、 性のことに関しては個人的に、少し魔術的、 または瞑想的な手法も含めて 興味もあり実験もしていたので、 1996年から1997年頃に、 20代のころの私とは違う、 新たな方向へと性の探求を開始して、 物凄い量の実験を繰り返しました。 数年がかりで、瞑想に興味のある人たちのための 基礎づくりのための性のマニュアルを作り、 かつそれは、ごく普通に性で問題意識をかかえたり、 トラブルを起こしているカップルに 実用的な方法論を提供しようとしました。 これは私個人の興味と合致したので そこに全く無理はなく、 完成した3つの本の内容には満足しました。 この本を完成するために、相当の時間を、 性の相談の受け答えに費やしました。 ただ、その性の相談を引き受けていた時期に、 性の技術的な問題、男女の心のあり方を 単純に語るだけでは解決しない問題を、 随所でかいま見ました。 それはのちに巨大なテーマになった、 機能不全家族、トラウマ、虐待の被害者、 毒親問題、アダルトチルドレンの問題でした。 こうしたものが、男女の精神的な関係のみならず、 その男女の性にも大きなトラブルを 引き起こしていることまでは分かっていました。 ただ当時は、それを解決できる 具体的な手立てがなかったのです。 一般社会には、精神医療やカウンセリングが、 そうした家族由来のトラウマ問題に昔から取り組んでいて、 行動療法や、自己分析、自助グループによるセラピーや、 毒親から避難するための シェルターなどの活動は今もずっとあります。 そういう経緯から、 悟りのような非人間的な状態になってしまう前に、 まずは人間になろうよ、 飽きるほど人間やってからじゃないと違うでしょ、 と思ったんです。 イエスにしても、仏陀にしても、 壮絶に普通の人間をやっていますよね、多分。 王子として普通の生活なんて満喫している。 それでもなおお違うとなったわけですから、 スタート地点が違い過ぎる。 そこで偉そうに書かれた昔の神話などを読み、 憧れたとしても、時代背景も違う。 いわゆる変性意識や悟りは、 普通に生きて、普通にちゃんと経験すれば、 その結果としてそこへ至るきっかけが 起きるものだと思います。 だから最初からそこを目指すべきじゃない。 頂点的なところにいて、それを振りまいて、 そこを人がかぎつけてくる。 そんなことやっていては、駄目ですよね。 精神世界という迷路
B:スピリチュアルなことを闇雲にやってみても、 なんの解決にもならない。 ほとんどの場合、ならないと思いますね。 何の解決にもならないどころか、 悪化するかもしれないですよね。 自分が他の人とは違うことを知ってるみたいな、 余計なものがトラブルをまた大きくしてしまう。 ただ、何が正常なのかというのは難しいですよね。 基準なんて本当はない。 心理学的な線引きでこっちが正常、 こっちが異常、とも言えない。 世の中や親や教師が教えてくれるのは、 技術だったり、モラルだったり、人格だったりしますが、 自分がどのような意識の状態、知覚の状態、 心の状態で「在ればいいのか?」という 存在の仕方なんて決して教えてくれません。 私も中学生の時からその後 長い間、ずっとそれに悩み続けました。 でも、どんな状態であるべき自分がいいんだろうと 自分を追い詰めるのはもういいやと、 ある時期にやめたんです。 悪いと言われていることでも、 とにかくやりたいことをやる、 楽しむと決めてからは吹っ切れて、 何十年か生きてきたんですけどね。 悟りだなんだの世界の前に、やることあるでしょ? という部分を私は探求したんです。 「自我復元」もそうだったし、 家庭内のトラウマの問題もそうだったし、 あんなものを持っていっては その次へはいけない世界です。 (注/「自我復元」とは 「人間は誕生する肉体を選択する際に、 希釈された不完全な状態の自我を、 魂の乗り物として選択してしまう事があり、 その結果生じてしまった不具合を解決する為に、 元来の状態に自我を復元しようと試みた方法論」  詳細は無明庵発行の「分割自我復元理論」 「分割自我復元」を参照下さい)
B:生身の人間のところを解決した人こそが、 次の段階へ進むことができるということですね。 そうですね、 それでもなお不満があればですけどね。
B:トラウマの問題は両親まで遡れば解決しますか。 意外と祖父母が怖いんですよ。 母親を育てた毒母親が裏にひかえていて、 たいがい孫を手籠めにするんですよ。 だから子どもが二重にトラウマを背負ったりするのは、 たいがい母系なんですね。 確かに暴力や問題行動は父親にはあるんですけど 女の子でも男の子でも母親はもう絶対的に影響します。 子どもはとにかく不安にさせちゃいけません。 親の都合で一番押し込めやすいのは感情です。 「泣くんじゃありません」「おとなしくしなさい」とか。 「言うことをききなさい」「お兄ちゃんなんだから」 「男の子なんだから」。 ひどい親になると「何ふざけて笑ってんだ」とか。 結局それで何が被害を受けたかというと 人格どうのこうのという以前に感情なんですよね。 思考と感情がちぐはぐのまま 大人になっちゃうから、相手に言葉を伝える時に、 本人も聞いている方も違和感を感じる。 感情を隠した言葉が出ている状態に なっちゃうことがほとんどです。 一番怖いトラウマを、 特に母親が子どもに背負わせるのは、 喜怒哀楽の抑圧ですね。 私はそれに2つ加えて、好と怖。 トイレにいけない子どもに 「怖がるんじゃありません」と言っても、 怖いものは怖いのだから、 おもいきり怖がらせておけば、そのうち収まります。 そして、子どもは一時的に ものすごい何かを好きになるけど、 ぬいぐるみを飽きるみたいに捨てる時期もきます。 それを毒親がいちいち 「そんなものを好きになるんじゃない」とか、 「隣の○○ちゃんと遊ぶな」とか最悪です。 自分で選ぶことができない子どもができあがり、 常に母親が気に入るものを 選んでしまう人が結構多いんですよね。 本人が自覚してなくて 40代、50代、になってから気づく人もいます。 喜怒哀楽と「好」と「怖」も 5歳くらいまでは完全に放置するのが いちばん良いと思いますね。 主なトラウマが5歳くらいまでに形成されます。 ある程度いくと耐性ができるので その期間をうまくすごせれば大丈夫です。 トラウマ問題は面倒です。 私もある程度まで立ち入ってみましたが、 これ以上は立ち入れないなと思いました。 私がどうこう言うより、 本人が切迫していれば 何も言わずに自分でトラウマを掘っていきます。
B:ご著書『いらない親』にもありますが、 過去の不快だった出来事の年表を自ら作って トラウマに気づくだけでもかなり違うのでしょうか。 はい。その段階で変わるものはあるんですよ。 でも、気づいただけじゃ変わらないものもあって、 同じパターンをどうしてもやってしまう という場合には行動療法が必要になる場合もあります。
B:苦手なところに意識を集中するやり方もありますが、 得意な部分を伸ばすことで 苦手な部分も自然と伸びていく という考え方もありますよね。 一理あるかもしれないけれど、 誰にでも適用できる方法ではないですよね。 はまる人もいるんだけれど、 勘違いして自分のやりやすいことばっかりやって、 何も伸びない人もいると思うのです。 同じ言葉とか示唆とか技術でも それらは聞く人によって ずいぶん影響や効果の出方が違います。
B:精神世界を旅するなかで遭遇する落とし穴も、 乗り越え方も人それぞれということですね。 人によりますね。 危なげなく乗りこなしていく人もいますからね。 いろんなセミナーを受けながら、 少しずつ身についていく人もいるので、 どこからおかしくなるのかはわかりません。 ただ、一番危ないのはコンプレックスかな。 親子関係が一番関係しているような気がします。 親以外に子どもにコンプレックスをなすりつける 犯人はいないですからね。 学校でそういう目にあったとしても 家がそうでなければ、 そんなものを意に反さなかったりします。 『いらない親』の事例みたいな現場は、 専門家の方しかとても手におえない。 今の学校や社会の価値観に親が迎合していて、 まともな子どもが育つなんてもう無理です。 とにかく人間自体が めんどうくさい事になってしまっている。
B:やっぱり苦しみが多いんでしょうね。 だから、人それぞれの逃げ場が必要になってくる。 うん、精神世界って、 あんまり褒められた世界ではないと 私個人は思います。 ご存知のように、私はどちらかというと、 悲観主義といいますか、慎重な方だと思いますので、 未来は明るいとか、人類には可能性があるとは 簡単には思いません。 では、どんな理想的な世界がいいんだと聞かれると、 それはそれで困るんですが、 少なくとも人間性や人間同士の愛情などを 皆さん持ち上げすぎていないかな。 動物の方がよっぽどまともかな。 そういう意味では、私も含めて 今の人類というのは、 かなりおかしな品種なのかなと思いますね。 愛情を求めるのではなくて、 気がついたらいろんな楽しさや 愛情を感じていたというのは それは良いのです。 でも自分から探したり、 誰かがくれないとか、見つからないとか、 それをやるとヒステリックに なっていく気がするんですよね。 でもそれはその人が 愛情深く育てられなかったせいだと思う。 もしも神々が毒親だったら?
B:著作の中で「宇宙が失敗だったかもしれない」 と言われていますが、 それはどういう意味での失敗なのでしょうか? どうしても失敗したと思ってしまうのは、 目を覆いたくなるような悲劇と、偽善と、 不幸という現実の一側面を見るときに、 苦痛が多すぎるように見えるからかもしれません。 いろんな精神的な進化や経験をしても、 それこそ一軒の家にたとえると、 なんかこの宇宙おかしいんじゃないか という感じが強い。 あくまでも個人的な感覚ですけどね。 だから、別に無明庵の本の中に書かれた 宇宙の姿が真実だということではなく、 そういう宇宙観をもった人が どうやって自分を納得させて生きていくのか、 そういう今までなかった宇宙観を もった人がいたというだけでいいんです。 精神世界、既存している宗教や神話も含めて ほとんど全部に 「上の次元は善で、間違っていない」 という大前提があります。 でも「うちのお父さんとお母さんはすばらしい人なんだ」 と思い込まされ、 家でしか通じないルールの中で育てられ、 洗脳され、虐待されていたらどうなるのか、 というのを、 もし人間と人間じゃない存在たちにあてはめたら、 そういう現実は十分にありえるんです(笑)。 仮にそうだとしたらば、 どうしてこうなったのか、 どこに間違いがあったのかに 私は最も興味がありました。 人が希望を抱くことは否定しません。 しかし、希望も絶望も、その根拠が重要です。 「どうして、そう思うか、そう思えるか」です。 人間は、万物の霊長と自惚れていますが、 昨今の精神世界の情報を精査すればお分かりのように、 人類、特に、私たち人類が、 ある種の実験動物や、 何かのエネルギーの生成の材料に過ぎないこと、 または、遺伝子操作の結果、 不具合が出来た失敗例である可能性なども 考慮しないとならない時代になったと思います。 その中で、自らの手だけで修復が出来ることもあれば、 設計者が他に存在するとしたらば、 別の新しいやり方を考え出さないと ならないこともあると思います。 もしも私たちを作ったり、 操作したのが毒親のような神々であったならば、 彼らを出し抜けないか? と考える必要すら出てきます。 魂というものには、 地球人とか別の次元の者という 差異がないはずなどと、 相当に無理のある妄想をしたとしても、 私も含めて、誰もが、 個人または種族としての限界と、非力さ、 そして可能性を持っています。 私見では、 精神世界がこの20年で最も大きく変化したのは、 導師や宇宙人、神々や高次元世界への「崇拝」から、 そうしたものの構造の分析と精査、 疑惑を向ける視点、 そして自立を目指す動きが これから出てきそうだという予兆です。 人が神々から自立し始めるのかもしれないんですよね。 インドの聖者が正しいとか、 チャネラーの言葉が正しいとか、 仏典は正しいとか、 見ず知らずの天体や異世界に憧れていたのが、 いよいよその実態は本当のところは、 どうなんだろうというところまでになってきた。 それこそ親の化けの皮がはがれて、 子どもが自分の親の実態を知って、 失望して、じゃあ僕はどうするんだ?  という状態になりそうな感じはしますよね。
B:本日は、ありがとうございました。



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