相対主義からのサヴァイバー

- interview with 川端裕人 -

あらゆる場面にその姿を現す嗜癖プログラム。
世界金融市場の予測不可能な動き。今、過去からの価値観が揺すぶられている。
決定的な変化にそれなりの痛みを伴うことは火を見るより明らかだ。
今、世界で起こっている事は、人間ひとりひとりが抱く価値観の集積であるという。
全にして個、個にして全…
いよいよこの言葉が本格的なリアリティを持って動き始めた。
「乱雑さ」と「秩序」。臨界点を迎える世界を切り取り、
その断面に見える人間の根深いプログラムを、
小説という形態で私達に提供する川端氏の視線は、どこに向かっているのか?

川端裕人(かわばた ひろと) プロフィール

1964年兵庫県生まれ、千葉育ち。
東大教養学部(科学史、科学哲学)卒。
日本テレビ入社、科学技術庁、気象庁担当記者を経て、97年退社。
98年『夏のロケット』で第15回サントリーミステリー大賞優秀作品賞受賞。
著書に後述の小説ほか、『クジラを捕って考えた』(パルコ出版)、
『イルカとぼくらの微妙な関係』(時事通信)、
『ペンギン、日本人と出会う』(文藝春秋)ほか多数のノンフィクションがある。



B:川端さんは、昨秋、『The S.O.U.P.』という小説を出版されました。
  これは、ネットワーク社会におけるテロリズムが
  テーマの一つとなっていると思うのですが、
  出版直後にアメリカでテロ事件が起こり、偶然というには、
  あまりにもタイミングが合っていて、少しびっくりしました。
  実を言うと、現在の世界を読み解く鍵として、
  このところずっと気になっていたテーマが、「嗜癖」、「お金の本質」、
  そして「ネットワーク社会」だったのです。
  驚いた事に、過去に川端さんは嗜癖とシャーマニズムについて書かれた『ニコチアナ』、
  お金の本質を問う『リスクテイカー』という小説を出されていますね。
  あまりにも符号してしまったものですから、
  川端さんという方がどのような事をお考えになって、
  こういうテーマを取り上げられたのか、
  今日は、お聞きしたいと思っています。


たぶん、僕はウォッチャー体質ではなくて、
何かの分野を継続的にずっとウォッチし続けることというのができない人なんです。
なんとなく、ここ掘れば何かがあるんじゃないかって思えるようなジャンルが
ざっくりといくつかあって、積極的に追いかけなくても入ってくる程度のことは一応、
気にかけつつも、比較的ぼーっと日々を暮らしています。
で、そろそろ、こういうことを考えてみようかと思ったら、
がーっと何かを読んだり、人と話したりしながら、
構想を練っていくと、ああいう話になっていったりするんです。

けっこう人との出会いというのも大きくて、
『リスクテイカー』だったら、ソニーのコンピュータサイエンス研究所の研究員で、
経済物理というジャンルを世界的に作っちゃった高安秀樹さんなんかと話をした時に、
あ、これは小説になると思った。
その前からこのテーマで書くつもりではあったんだけど、
これで、もう道が決まった、という感じでした。
『ニコチアナ』については、そんな画期的な幹となる人はいなかったんだけども、
細々と触発してくれる人々がいましたし、
逆にいろいろな文献とかバリバリあるので、かなり文献学の世界に迷い込みました。
あと、『The S.O.U.P.』については、これはけっこう出会いに左右されてて、
竹中直純さんという日本でも屈指のハッカー(本人は自分を「技術家」と呼んでますけど)
そういう人がいて、それも取材を通じて知り合ったことで、
かなり書きたいことのフォーカスが定まって いった。
坂本龍一のコンピュータ関係のアシストとか、
ムーンライダースのコンサート などでも彼がいろいろ世話してるみたい です。
たいへんおもしろい人です。


B:ご自分で、どこか引き寄せているようなところがあるのでしょうか。


オポチュニティドリブンって僕が勝手に 言っているんですけれども、
ま、イベント ドリブンでもあるのかな。
たまたま目の前にあるものがあって、興味をひかれ、
調べてやろうか、という流れが起こる。
ある種の偶然性ですよね。

同じ様なキーワードに突き当たるのは、 
 きっと僕達が同じ時代を生きてきたからじゃないでしょうか。
ちょっと前に、30代についての本をある出版社が出したんですね
(「大事なことは三〇代に聞け」[東海教育研究所])。
その本では、社会的にようやく前に出てきた30代の人達を取り上げている。
で、執筆の依頼が来たんですけれど、それと同時に質問票みたいなものが同封されいて、
「あなたが今の30代を一言で言うとしたらなんと表現しますか?」
という問いがあったんです。
僕は、「80年代相対主義からのサヴァイバー」だって答えたんです。

今の30代の人って、戦後教育みたいなもので教育されてきて、
自分が成長するに従って、バブルがあったり、バブルがはじけたり、
ITが来たり、いろいろなものが押し寄せてきて、
「あの教育、何だったの? 嘘だったのかよ」っていうことを
感じざるを得ないような世代ですよね。
確かなもの、確信できるものがなかったじゃないですか。
それって、僕らの世代に、宇多田ヒカルとか中田英寿みたいな、
年少にして第一線に立つ人が少ない理由だと思うんです。
若い頃に、これだって確信して力を出していくには、
確固とした足場が必要なんだけど、
その足場がぬかるみだった世代だから、
瞬発力を持っていた10代の時には、そこに足をとられたんです、きっと。
だから30代になって、ようやく一線の仕事をする人が増えてきたんだと
思うんですけれど。
そんな、同じ様な時代背景で育ってきてるから、
世の中に対する眼差しの角度みたいなものが似ているんじゃないでしょうか。
自然に、似たキーワードが目に入ってくる、と。


B:スピリチュアリズムやシャーマニズムについての本も、よく読まれるのですか?


そんなにたくさん読んでいる方ではないと思います。
シャーマニズムには興味があるんだけど、
それが西洋文明に接続した形のスピリチュアリズムということになると
あまり興味を持てなくて。


B:嗜癖と言うと、アルコールとかドラッグとかの依存症者についての事であって、
  あまり自分とは関係ないと感じている人も多い様に見えます。
  でも、本当は、”リアリティそのもの”を受け入れることができない人間が、
  何か代償的なものに行ってしまう、という現象ではないかと思うのです。
  そう考えると、人間全てが本来そういう性質を持っている。
  人間という存在の限定性に関わっている事象だと考えていました。
  川端さんは、『ニコチアナ』という小説の中で、嗜癖とスピリチュアリズム、
  個と全体との関わりという今までにない視点で触られているので、
  非常に興味深く読ませていただきました。


そういう問題意識を持って読む人は珍しくて、
あの作品って、僕の書いたものの中では、 一番、理解されていないんですよ。
僕としては、あれは最大の問題作にして、力作にして、 
でも、エンターテイメントとしては失敗として位置づけざるを得ないな、
と思ってしまうほど。
もうちょっとこなれた形で書かないと人には届きにくいんだなと、
よくわかった作品なんです。

おもしろかったのは、あの小説を読んでピンと来ない人の多くは、
たばこを吸わない人。
つまり、自分がたばこを吸わないクリーンだと思っている人ほど、
依存の 問題に無自覚なんです。
自分がたばこに 限らず、恋愛依存症かもしれないし、セックス依存症かもしれない、
ひょっとしたら母子の間で相互依存しているかもしれないという可能性を感じていない。

どこかでアディクトしていないと、
人間というのは現実世界にアンカーを打ち込めないんだ、
という感覚無しで生きていけるという、
ある意味幸せで、 ある意味、こわい人達。

そういう人達は、「たばこ根絶」って平気で言えるし、
「テロ根絶」って言えるし、
アメリカ人がアフガニスタンの次に侵攻するべきなのは、
イラク なのかフィリピンなのかということを、
平気で議論できるような人達である可能性が十分ある。

喫煙者のイデオローグが、嫌煙運動が持っているある種の無神経さ、
危険さを指摘するのは、あれは本当だと思います。
ただし、たばこを吸っている人達も、
このまま吸ってていいわけじゃ全然ないんですけどね。
そういうようなことをつくづく考えました。

本当に、たばこを吸っている人達の方が、
「ああ、俺ってだめなやつ。やめたいのにやめられ ない」
と思っている分だけ、身につまされるものがあって、
問題意識を共有してくれるな、と。
あ、ちなみに、ぼく自身はバリバリの嫌煙派で、
ジャーナリストとしては「喫煙対策は今すぐになんとかしなきゃヤバイ」
というスタンスなんですけどね。


B:嗜癖というのは、自分対世界の関係性が、リアルに実感できないゆえに、
  何か別のものを求めていってしまうという感覚だと思うんです。
  それは、たとえば資本主義経済や、 アメリカがもたらした文化に
  密接に関係しているように感じます。
  これを仮に嗜癖プロ グラムと呼ぶとすると、
  世界のあらゆる国の人々がこのプログラムに乗っかってしまった。
  けれども、当初、持っていた幻想通りには いかなくて、
  実際には満たされない失望感がうずまいている。
  たとえば、南米には南米の、もともとは嗜癖的ではない文化があったと 思うんですけど、
  それが嗜癖プログラムにはまってしまったことで、
  みんなすごく貧しくなってしまった。
  そして、苦しんでいる。


ここで言う嗜癖というのは、
歯止めが 利かなくなることをおっしゃっているんですか?
たとえば、アルコールとのつきあい方で 見れば、
どんな社会でも嗜癖的なものというのはあったと思うんですよ。
でも、それが近代文明以降になると、
歯止めの利かないぐらい破滅的にひどくなるということがよくありますよね。


B:嗜癖という定義の仕方が難しくなります けど、
  やっぱり自分ではコントロールでき ない、という特徴があると思います。


自分の力でコントロールできないというのは、元々みんなできなかったんだけど、
たぶん 共同体のコントロールがあったと思うんですよね。
アメリカ型の大量消費文明というのは、
大量に消費し続けるのを奨励するような構造になっていて、
たとえば、ハンバーガーに アディクトする人は、高脂肪食物を食べ続けることとか、
南米に住んでいるんだけれ ども、ナイキがかっこいいと思う人は、
自分の生活はぼろぼろなのに、
かっぱらいをやってまでナイキの新しいシューズをゲットしようと思ったりとか、
そのために人を殺したりとか、するわけじゃないですか。

共同体の掟や神話的な世界観によるコントロールみたいなものが仮にあったとして、
そういったものをすべてとっぱらって、
個人と物や事が直接噛み合って、
歯止めが利かなくなることをサポートする文明っていう…。


B:「自分の取り巻く世界をコントロールできると思う幻想」ということでしょうか。
  たとえばアメリカだったら、運命もそうだし、幸せも、自分で得られると思う幻想。
  しかし、現実にはほとんどの人がそんなうまくいかなくて、
  それが嗜癖の根本にあると思います。


アメリカの宇宙飛行士がミールに乗って、ロシア人と共同生活をするという
プロジェクトが何年か前にあったんですけど、
地球にいる息子に宇宙飛行士である父親が書いた電子メールを
コンパイルしてひとつの本にした ものがありました。
その中で、あるお父さんは息子にあてて、
「君はすばらしい国に生まれた。アメリカは世界で最高の国だ。
なぜかというと君は、これから自分のなりたいものにすべてなれる。
すべて自分でやれる。」
という主旨のことを書いたんですね。
まさにそれはアメリカニズムの本なんですけれど、 
宇宙飛行士というアメリカの象徴のような存在が、
父と息子の関係という、とてもアメリカらしい言説の中で、
そういうことを語って聞かせるという形。
日本人には理解しがたいほど、彼ら的な愛国心に満ちた言葉を語っているんですけれど、
今、それを強烈に思い出しました。


B:以前は、共同体と自分との関係みたいなものが、
  もっと身体感覚としてあったと思うんですけれど、
  嗜癖プログラムに自分の頭を変えてしまったことで、
  もうこちらとも断絶してしまったのかもしれません。

  資本主義社会ということで言えば、
  お金って何なんだろうという本質的なテーマに迫って いる本はなかなか無いのです。
  いわゆる経済書とか、儲けようというハウツー本、
  あるいは ニューエイジ的なアプローチの本はあるのですけれど。
  もっとお金の本質というのは、人間の感覚的なものとかなり密接にかかわっているし、
  社会のエネルギーとしての役割があるんだろうなと思っていたら、
  『リスクテイカー』はそこのところに迫っている小説ではないですか!
  あれはもちろんフィクションですけれど、想定の中ではリアリティの中で、
  何十億ドルというお金を動かすということをやっていますね。
  あのような世界的な規模で起こる事でないと、人間の中のお金に対する、
  いろいろな固定観念や幻想がはずれない、というか本質には触れないというのを
  見事に小説でやられてしまった、と思いました。


そういう読者がいるなら、もっと売れてもよさそうなものなのになあ。
なんかトホホなぐらい、そういう読み方はしてもらえなくて。(笑)


B:川端さんが今、一番興味を持たれているのはどんなことかが、とても気になります。


プライバシーの問題とか。
国際条約まで 作って、中央政府が個々人の管理をより効率的に行えるようなしくみを
各国が作りましょうなんていうことを、やりかけているじゃ ないですか。
人の行動をすべて監視できる、フーコーのパプティノコンみたいなものが
初めて技術的に可能になってきている。
『1984』のビッグブラザーの管理社会というのが、
すごく幼稚に見えてしまうような ことを、
インターネットはやろうと思えば できちゃう。
ネットワーク社会について、あまりにもみんな何も考えないで、
匿名性とか言ったりするのが、僕はとてもアンコンフォタブルです。
良くないんじゃないかな。
逆ですよ、それ。


B:ネットワーク社会ということで言えば、
  『The S.O.U.P.』でも同じ事を感じたんですけど、
  最初は、自分でコントロールできるという幻想をみんな持っている。
  まあ、日本人もそうだと思いますけれど。
  インターネットをやったりコンピュータにさわったり。
  でも実は気がつくと、全然コントロールでき ない、
  コントロール不能の世界にまぎれこんでいってしまう。
  ところで、『The S.O.U.P.』の中には、パタゴニアの最南端、
  つまり世界の果てにあるウスワイアの博物館が舞台として登場してきますが、
  川端さんはあそこに行かれたことがあるのですか?


あれは嘘です。
ごめんなさい。
分館があるなんて。
行ったこともないし。
写真などを見ながら、こんな感じなんだろうな、と勝手に書きました。
だって、世界の果ての博物館って良いじゃないですか。
世界の周縁でありながら、世界のすべてを収集し展示する場ってイメージなんですけど。
インターネットのトポロジーが持っているフラクタル構造にも似てるななんて思ってて。


B:そうだったんですか。
  実は、あの博物館には行ったことがあるのですけれど、
  おじいさんが一人いて、いろいろ案内してくれるんです。
  雪に閉ざされた時期に行ったので、とても暇そうで…。
  てっきり、行かれたことがあるのだと思っていました。



そう思っていただけたのなら、小説家として本望です。(笑)


B:話が戻りますが、コンピュータとの関係性によって、
  多くの人の何かが癒されているような気がします。
  人と人との関係性って、コントロールできると思っている幻想の中にいると、
  実際には、そう思っている者同士ですからなかなかつながりにくい。
  けれども、コンピュータが間に入ると、キーを押すと 必ず、何かが返ってくる。
  そうするとほっとする。
  そういう人間が想像しなかった効能というのがあるのではないでしょうか。


それはわかるようなわからないようなところもある。
確かに、プログラムを書いて、コンピュータが言うことを聞いてくれてうれしい、
というような感覚は分かります。
でも、コミュニケーションの手段として見たときに、
コンピュータが特別 違ったものだとは言いたくないんですよ。
 あまりに、違う違うって言われ続けてているから。
人と人がつながるという意味では、携帯電話 だって、ファックスだって、
面と向かって話すのだって、本質的には一緒じゃん、
というのをとりあえず先に言ってから、
違うところはどこかなって探すぐらいの感じでいたいのかな、気分的に。


B:人が癒されたいという欲求は、どこに 行こうとしているとお考えですか? 


さあ、どうなんでしょうね。
そういう根源的なことを語るのは、たぶんもっと適した人がいるんじゃないのでしょうか。
僕の頭でいくら考えてもそれは出てこないんです。
残念ながら、それは20代の頃に諦めました。
僕は、今ある問題をちゃんと解決していくようなことに役立ちたいだけです。

最近ですけど、「エッセンシャリスト」と呼べるような人たちが
世の中にずいぶん多いなと思っているんです。
物事に、時代や地域を越えて共通する「本質」があったり、
提示されている問題に唯一無二の答があると、 
想定したがる人たちのことです。
時にその「本質」や「答」は神様や超自然的な存在が
与えてくれるものであることもあります。
で、僕はエッセンシャリストではないんですね。
本質という言葉を僕はたまに使うことはあるけれど、
でも、例えば、このコップにはコップの本質があるなんてことは思っていないん です。
コップには機能はあるけれども、
その機能はそれじゃなくても実現できるだろうと。
神様が与えた、あるいは超自然的な何かが与えた本質があるとも、全然思っていない。
何か今、とても議論すべき大切なポイントという意味で、本質という言葉を使う。


B:これまで川端さんが表現されてきたキーワードは、
  ニューエイジ的なジャンルと重なっている部分も少なからずあるようです。


やっぱり同時代性なんじゃないですか?
ニューエイジというのと僕は同じ時代を生きてきているので。
僕の周りいる同世代の人達の中で、これは女性が多いですけれども、
ニューエイジ的な本を読んだり、生き方を模索している人がいます。

彼ら、彼女らを見ていて、ひとつだけ懸念を覚えるのは、
日本のニューエイジ的なものの特徴だと思うんですけれども、
こういうスピリチュアルな言説が、現実、今の自分、および今の社会の
現状追認にしかならないことがすごいあるんですよ。

もちろん、自分を認めてあげたいとか、自分を認めてあげられるというのは
とても大切なことで、
「あなたはそのままでいいんだよ、今のままのあなたでとても価値があるんだよ」
という認識って大切にしていいんたけど、
それって、角度を変えてみれば、
「現状を追認せよ」というのと同じになるなんです。
追認してよい現状はどんどん追認していいんですけど、
絶対に違う!ってのもあるじゃないですか。

たとえば、僕はイルカについて関わりがあるんですけれども、
本当に今でも許し難く、はらわたが煮えくりかえる事件があったんです。
ハワイで、ドルフィンスイミング中にひとり女の子が死んだんです。
カヤックで沖まで出て、ぽちゃんと落としてもらうスタイルでイルカと泳ぐ。
で、カヤックを漕いでたスタッフの白人男性が、
泳げない子を沖に連れ出した上で、陸に戻っちゃったんです。
それで、ちゃんと監視しなかったので、溺れ死にしちゃったんです。
そしたら、そこの主催者の白人女性が、
「彼女はイルカに呼ばれたのよ」って言ったんですって。
さらに許し難いことに、参加者は全員日本人だったんですけれど、
参加者達が、「いい体験した」って納得して帰って来ちゃった。

そこまで現状追認するなよ、それならおまえらは同時多発テロだって
認めるしかなくなるだろっていう気持ちがあって、
それが僕の最大のニューエイジ批判だったりします。
おまけにその主催者の白人女性は、その事件の後で、
日本の出版社から立派な本を出して、その中には、
「何年間イルカと一緒に泳いでいるけれども、嫌だった人とか、
悪い体験をした人はひとりもいない」
と書かれていて……。
ま、たしかに死ぬことも含めて悪かったと考えない、
あなたの頭ではそうなんだろうな、と思うしかない。
そのへん難しいですよね。
悪い意味での現状追認と自己肯定って、裏表なんですよ。
 

B:リアリティのとらえ方に、どこか大きなずれがある、ということですね。
  そのこと自体にも、嗜癖プログラムの匂いがします。


僕らが学生だった頃には、ニューエイジサイエンスの本がたくさん出たりして、
既存の価値観みたいなものを相対化して見てみる知的雰囲気が蔓延していた時代だったんです。
相対化というのは、何か確固としたものがあった時に、
ずらして見る事には威力を発するんだけれども、
何も無い時に相対化したら、何もないままなんですよね。

何が信じられる物なのかというのを身体的に納得するためには、
相対化の方法では全然役に立たないわけなんです。
ニューエイジの人達っていうのは、相対化の青春時代を送ったけれども、
何か確かなものがきっとあるはずだ、という風な感覚が強い人で、
だからどこかで信じていい本質みたいなものを求めている。

僕は、そうじゃないんです。
僕が相対主義からのサヴァイバーって言ったのは、
自分自身のことを評したつもりだったんですけれども、
物事を相対的に見ていくことによって、
足場を無くすなんていう事にわざわざエネルギーを費やすのは、
一定のパーセンテージに留めておくべきであって、
もしもプラクティカルに何かを回していきたければ、
それだけではすまないということがすごくある。

本当にそれをつきつめて苦しくなった人は、
サヴァイバーじゃなくて、犠牲者だと思うんです。
それに疲れちゃって、「本質」を求めるというのは、
極端から極端に走る行為である気がします。
僕は、自分なりに言わせてもらえば、
ちゃんと生き残って、相対的な価値観の持ち主として今も生きている。
それにもかかわらず、プラクティカルな落としどころみたいなものを
求められようなバランス感覚と、その曖昧さを人にも許して、
自分も許してあげられるだけのずるさは身につけた、
というのがサヴァイバーという意味なんですけど。

そのへんの曖昧さ、許してあげる感覚がないと、
ゴリゴリに相対主義をつきつめたら、その先にあるのは、自分の存在意義の喪失だし、
エッセンシャリズムの運用を誤ったら、
単なる現状追認になってしまうし。
 

B:なるほど。
  そのバランス感覚が、きっと川端さんの作品を生みだしてきたのですね。
  今日は、どうも、ありがとうございました。

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