meeting with remarkable people [011]
ラジニーシ(和尚)
1931 - 1990

日本で「精神世界」という言葉が出始めた頃、かなりの広範囲で、
ラジニーシという人物の影響があった事をご存じだろうか?
カウンターカルチャーの流れから、ニューサイエンス、ニューエイジ、各種の心理療法、
ボディワークなどのムーブメントを牽引した日本人のリーダーの中には、
少なからずラジニーシの弟子がいた。
直接の弟子にならなくとも、彼の『存在の詩』などの著作に、
衝撃を受けた日本人は多かった。
絶大な影響力を持ったカリスマ、ラジニーシ。
その背景には様々なスキャンダルも存在している。
今回は、日本の精神世界史を語る上で、避けては通れない、
ラジニーシの光と影に目を向けてみたいと思う。

1931年、インド中央部の小さな村に生まれる。
本名チャンドラ・モハン・ラジニーシ。
ジャイナ教徒の一家に生まれた彼は、幼い頃から特異な性質を示し、
若くして催眠術を習得していた。
20歳の時、ジャバルプル大学に入学。
その後、サガール大学で、哲学の修士号を取得。
その後、いくつかの大学で哲学の講師を勤める。
多くのグル達と比較しても、ラジニーシの知識の広さ、
インテリジェンスの高さは類を抜いている。

1966年、35歳の時、彼は教職を退き、遊説を始める。
伝統的な宗教の色濃いインドにあって、彼の思想はラディカルで斬新なものだった。
インド国内では反感を買ったが、当時、欧米ではヒッピームーブメントの最盛期。
先進国の若者や知識人は、彼の類い希なカリスマ性と斬新な思想、
そして卓越した雄弁さに惹きつけられ、彼をグルと仰ぐようになる。
彼は自身の称号を「バグワン・シュリ」とし、
デカン高原の学園都市プーナにアシュラムを開く。
東西の新理論に挑戦した生活様式の実験場、フリーセックスの実践など、
革新的な活動により、その名は世界に轟く。

1981年になると、ラジニーシはインドを追われるようにして、
アメリカのオレゴン州に居を移す。
東京都ほどの広大な土地を購入し、そこにコミューンを作るためだ。
コミューンの最盛期、ラジニーシの元には1億ドル以上という莫大な資産が集まった。
弟子達はサニヤシンと呼ばれ、公称50万人と言われた。
しかしこの頃から、様々な問題が発生する。
ドラッグやセックスにまつわるトラブル、陰謀画策、訴訟、
はては高弟の殺人容疑まで。
そのどこまでが事実なのかはわからないが、
コミューンの質は確実に変化していたようだ。
かつて知性派が中心だった弟子よりも、
ドラッグやフリーセックスに惹かれて集まってきた若者達。
笑気ガスを吸い、高級外車を乗り回すようになったラジニーシ自身。
古参の弟子達は次々にコミューンを去り、組織は混乱していった。
そして1985年、ついにアメリカ政府から偽装結婚や不正入国等の告訴をされ、
罰金刑とともに、国外退去を命ぜられる。

各地を転々とした後、再びプーナに戻ったラジニーシは、アシュラムを再開。
尊称は次々と変えられ、最終的に「オショー(和尚)」となった。
アメリカでは一種のカルトとみなされるようになったが、
彼を慕う人々は、それでもプーナに集まった。

1990年、59歳で死去。
糖尿病、喘息、アレルギーなどの持病を持っていたラジニーシ。
死因は諸説ある。

もし答の見つからない探求者が、暗闇の中でラジニーシの言葉に出会ったら、
むさぼるようにそれを飲み干したくなるのも不思議はない。
言葉にはできない何か、それを表現する術を彼は知っていた。
彼の著作は膨大な数に上る(現在では市場に無い書籍も多い)。
老荘思想、禅、仏教、スーフィ、キリスト教、インド思想、チベット密教…。
それらのエッセンスを、現代人の感性に置きかえた、彼の表現能力は卓越している。
圧倒的な個性とカリスマ性を持った一人の神秘家は、20世紀に何を残したのだろうか?

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