meeting with remarkable people [017]
野口三千三
1914-1998

ここ最近、日本オリジナルの身体論が再注目されている。
気功やヨガなどの東洋体育、西洋のボディワークを体験した後、
私達はもう一度、初心に還ろうとしているのかもしれない。
日本の身体論と言えば、二人の「野口」の名前があがる。
一人は「野口整体」の創始者、野口晴哉。
そしてもう一人が「野口体操」の創始者、野口三千三である。
混同されやすいこの二人だが、それぞれ独自の道を歩んでいる。
今回は、野口三千三に焦点を当ててみたい。

1914年、群馬の養蚕農家に三男として生まれる。
三千三(みちぞう)という名は、芝居好きの祖父から
「三千世界に子を持った親の心は皆一つ」という
浄瑠璃「先代萩」にちなみつけられた。
養蚕農家は、蚕が生活の大事な中心である。
この頃から、ものいわぬ蚕や山などの自然に、
伺い、「きく」という感覚、美意識が育った。

20歳で群馬師範学校を卒業、二年後高崎市立尋常小学校に赴任。
その後60年続くことになる教師生活の幕開けである。
生徒とは8歳の差、軍国主義の広がる教育制度の中においても、
先生というよりは兄のような親しみやすい人物だったようだ。
彼は独学で解剖学の専門書を何冊も暗記し、
その理論を、自分の身体の実感で確かめていった。
しかし、死体解剖を基礎とした体操理論は、
実感で得た現実の身体の動きと矛盾することに気づく。

小学校の教員課程を終え、群馬高等師範学校に入学、
検定試験に一番の成績で合格する。
1944年30歳の時、官位の東京体育専門学校(後の東京教育大
体育学部)の助教授となる。
翌年、太平洋戦争の敗戦を迎える。
戦時中の強い兵士作りを目指す体操観が、この敗戦で崩壊。
焼け野原となった東京に残ったのは、「大地=自然」。
その最も身近なものである「からだ」こそが、
唯一信用できるものであると彼は感じた。
そして彼がまず取り組んだのが、サーカスと舞踊の研究。
江口隆哉・宮操子の舞台にひどく感激し弟子入りをする。
その時の兄弟子は大野一雄だった。

1949年35歳の時、舞踊研究がきっかけとなり、新制大学として
発足した国立の東京芸術大学に助教授として迎えられる。
「体液のつまった皮袋に内蔵、骨、脳などが浮かんでいる、
人間は液体でできた袋」だといった野口三千三。
「より早く・より高く」という理念からは遠い彼の体操は
異端視もされたが、共感する生徒は、
単位に関係なく、熱心に野口の授業を受けるようになる。
このころから学生の間では「こんにゃく体操」などと呼ばれ、
野口さんが教えるいい体操=「野口体操」と呼ばれるように
なったらしい。
野口三千三の名前は、演劇界のみならず、
次第に哲学者や教育者からも注目され、広まっていった。

後に、新宿のカルチャースクールで野口体操教室を始める。
「言葉にならないところに体操の本質がある」という彼は、
決まって授業の始まる1時間前に来て板書きを始めた。
リズムカルに書いている間に徐々に生徒が集まって、
身体をほぐし始める。
そんな教室の風景は笑いの絶えない教室だった。
1998年、肺炎で入院する2日前まで教室の指導に通った。
「使命感・悲壮感のない遺言としての授業」と自ら称し、
授業に命をかけていた。
医師に過ぎた延命を遠慮し、自然のままにしておいて欲しいと
そう語った2週間後の3月29日、安らかな最後を迎えた。

無理やり「する」のではなく、自然のうちに「そうなる」こと。
あくまでも自然としての感覚を大事にした野口三千三の生き方。
彼の身体論は、意図をはずしたところのバランスにある。
その美しさを、私達は思い出したいのかもしれない。

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