meeting with remarkable people [021]
ヘルマン・ヘッセ
1877-1962

「スピリチュアルな文学」というジャンルがあるとしたら、
ヘッセの作品群は、たしかにこれに当てはまる。
東洋的、神秘的、アウトサイダー的傾向、
あたかも魂の巡礼者であるかのような、その生涯。
賢人ヘッセの生涯とはいかなるものだったのか?

1877年、 南ドイツのカルプという小さな町に、
宣教師である父と著名なインド学者の娘である母の元、
第二子、長男として誕生。
音楽的素質に優れ、自ら詩や曲を作り、歌った。
9歳で手にしたバイオリンは、「心の避難所」となった。

14歳、両親の願に応えて、マウルブロン修道院の神学校へ。 
「詩人になりたい」という衝動に突き動かされ、 
入学6カ月目にして、大胆な逃走劇を演じた。 
一時は神学者の元に預けられたが、恋に破れ、 
今度はピストル自殺を図った。
鬱病と診断された彼は、療養施設に4ヶ月滞在。
退院後、 再び別のギムナージウムに入学したが、 
一年志願兵資格取得後に辞めてしまう。 
その後、父の助手として出版協会で働く。
塔時計工場を経て、 ヘッケンハウアー書店に勤務。
ゲーテやドイツ文学を読み漁り、詩や散文を書き始める。

1899年、22歳の頃、初めて自身の作品を出版。
ほとんど売れなかったが、リルケに賞讃される。
ライヒ書店の助手となり、販売及び古書部を担当。
片手間に執筆した自作の出版が相次ぎ、徐々に評判を集めた。
この頃ヘッセは、ニーチェにも大きな影響を受けた。 

1902年、母の死を契機に、彼の創作意欲は増し、 
27歳の彼は、自然讃歌の『郷愁』で一躍有名になる。 
9歳年上の女性と結婚し、 湖畔の農家に移り住む。 
近代文明の及ばない、世間と隔絶した生活を好んだ。
長男誕生の29歳、『車輪の下』を出版し、大反響を呼ぶ。

しかしやがて、安住への苛立ちが湧き起こり、
「孤独な放浪者」でない自分の存在に疑問を持ち始めた。
1911年、34歳の彼は、画家の友人と共に、インドへ旅立つ。
ペナン、シンガポール、ビルマなどを巡るが、 
暑さと不潔さ、社会的情勢と人々の卑屈さに辟易し、
西洋世界に回帰すべきという認識のみで終わる。
旅の成果は、1922年の『シッダールタ』に現れた。 

しかし、戦争、父の死、息子の重病と妻の精神病が重なり、
彼は、深刻な鬱状態に陥って、健康状態も悪化。
ユング派の博士の元で、精神分析の治療を受ける。
この経験はヘッセの生涯で、重要な転機となった。 
1919年、匿名で『デーミアン』を出版。
郊外に一人で移住し、芸術家と交流を持ち、再婚を果たす。
この頃から、水彩画を描くことに熱を上げた。
1927年の『荒野の狼』は、50歳の誕生日に出版。 
二つの魂の分裂に悩む男は、ヘッセ自身そのものだった。
54歳で、ヘッセは三度目の結婚を経験する。 
『知と愛』『東方への旅』を綴った直後、ナチスが台頭。
スイスに移り住んでいた彼に出来たのは、
作品でそれに応えることだけだった。
晩年の超大作『ガラス玉遊戯』は、
ユートピア小説として、カルト的な人気を誇る。
1946年69歳、ノーベル文学賞を受賞するが、 
すでに彼は、スイス西部に籠もり療養生活に入っていた。
晩年は、自然に愛情を傾け、静かな日々を送った。
1962年、85歳で、モンタニョ−ラで没する。 

ヘッセは、常に「良心的なアウトサイダー」であった。 
社会通念や支配的な世界観にまみれることを断り、
しかし、同時に、時代と社会、自己と他者を、
目を逸らさずに見つめ続ける、誠実さと勇気を持っていた。
それは、彼の「魂の気高さ」がもたらしたのではないだろうか?
行き先の定かではない道を歩き続ける者にとって、
彼の作品は、いつでも最良の友となる。

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