meeting with remarkable people [024]
桜沢如一
1893-1966

人間は何をどのように食べるべきなのか?
20世紀初頭、「食」と「人間」を繋ぐ万物の現象を読み解く
「魔法のメガネ」をもつ人物がいた。
彼の名は桜沢如一(サクラザワ・ユキカズ)。
海外では「ジョージ・オーサワ」の名で親しまれている桜沢は、
その土地にある伝統の食物と穀菜食を中心とし、
東洋の易、陰陽の宇宙観から導きだした独自の食養法、
「マクロビオティック」を提唱した。
 
1893年、京都生まれ。
6歳の頃、父は愛人を作って家出、
母親は助産婦として一家の生計を支えたが、
如一が11歳の時に結核でこの世を去った。
幼少時代は貧困、病気に苦しみながら、
寺の小僧、牛乳配達、店員、船員などをして生活をつないだ。
 
20歳の頃、卓抜した手腕で知られた陸軍薬剤官、
石塚左玄の食養法を学び、実践した桜沢は、
自らの肺結核や長年の持病を治すことに成功。
その後の桜沢の人生の方向性を決める大きな転機となった。
 
高校を卒業した桜沢は、各種職を経て貿易商として活動。
会社を経営しながらも、自身の命を救った石塚左玄の食養法の
伝統を受け継ぐ社団法人「食養会」に入会。
以後、同会の復興、執筆、指導に専念し、会長となる。
この理論は、ナトリウム、カリウムのバランス論、
夫婦アルカリ説などの観点で食べ物を認識するという、
当時の日本では斬新なものだった。
 
桜沢は、このバランスという観点を
東洋思想の陰陽の考え方に当てはめた。
そして世界に問うべく、1929年にシベリヤ鉄道経由で渡欧。
フランス、パリに無銭旅行をし、
耐乏生活をしながらソルボンヌ大学で学び、
東洋文化を紹介した著書『無双原理・易』を出版。
日本では、近代的な制度からはみ出す宗教団体や共同体への
風当たりが強くなってきたのもこの頃であった。
その後も何度も海外に行き来し、見聞を広めた桜沢は、
軍事中心にして世界を敵にまわそうとする
日本の帝国主義の愚を力説する反戦運動家の顔ももっていた。

帰国後の1937年、44歳の桜沢は、
『食物だけで病気の癒る・新食養療法』を発刊し、
たちまち300版以上も増刷を繰り返すほどの注目を浴びた。
しかし、世は戦時中。
真珠湾攻撃や日本の敗戦を予言したために
桜沢は、反戦平和運動家として軍部に投獄される。
1939年には食養会と袂を分かち、
無双原理講究所、真生活協同組合、横浜勤労大学、
青年塾のMI塾などを運営し、多くの研究生を海外へ送りだした。
この活動が、不老長寿という意味のギリシャ語に由来する、
現在のマクロビオティック(正食)運動の源流となる。
 
国内外に強力な賛同者を得て広くネットワークを築き、
アメリカでは後に発生するニューエイジ・ムーブメントや
ホリスティック医療の下地を作る程の影響力を与えた。
1966年、72歳でこの世を去る。
死因は心筋梗塞。
技術なき原理を嫌い、老齢期においても自らの体を実験台にし、
様々な漢方薬や植物を試していたという。
52年間、全力で不老長寿、万病根治の秘法を説いたが、
死の間際になると、それすらも自然の摂理の前には
無効無用であったとも綴っている。
 
最初の問いである「何をどれだけ食べるのか」だが、
この問題には、実は今でも正確な答えはないのである。
住んでいる場所、家系、ライフスタイル、様々な要因には
陰陽という現象がそれぞれ重なり、現実となる。
しかし、物を食べることでしか生きられない私達は、
今一度、食べるということを見直す時期に来ている。
食を知るには、あらゆる原理に目を向けなければならない。
感謝の心で食べ物をいただくことを忘れかけた人間に、
桜沢は今でも檄を飛ばしているのかもしれない。

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