meeting with remarkable people [026]
プラトン
紀元前427-347年

かつて人は、自然を哲学の対象とし、
世界の根源を「火・水・空気・土」などと考えた。
しかし、その世界を認識するのは自分たちである。
やがて、人間の心理や論理についての思索こそが、
「真理」発見の鍵である、というスタンスに移り変わってゆく。
そのような流れを生みだしたのがソクラテスだとすれば、
その哲学体系を緻密に作り上げ、
本格的な著作の形で最初に記したのがプラトンである。

紀元前427年、ペロポネソ戦争が始まって間もない頃にプラトンは生まれた。
彼の家は、アテナイの名門であった。その一門には歴史的に有名な人物が多い。
母ペリクティオネの血筋は、民主政治の祖ソロンにつながり、
父アリストンの家系は、伝説におけるアテナイ最後の王コロドスにつながると云われる。
彼は名門の生まれに相応しく、小さな頃からよく教育された。
絵の勉強をし、叙情詩や悲劇も書いていた。
早くから政治的な指導もあったに違いない。
こうした背景から、彼は早くから精神的に開かれてことが窺える。
彼の少年期は、まっすぐ一直線に進んで行った。

プラトンの青年期は、戦争と祖国が次第に衰退して行く時期に重なる。
18歳頃から五年間、軍務に服していたとも伝えられる。
彼の人生を決定つけた「ソクラテスとの邂逅」は、この頃である。
劇場の前で演説するソクラテスの言葉が耳に入った瞬間、彼はその場で、
手に持っていた書物や詩集を焼き捨ててしまった。そしてソクラテスに向かって、
「弟子にしてください」と懇願した。プラトンは約八年間、
ソクラテスの最愛の弟子として人生を過ごした。

紀元前401年、26歳のプラトンには、まだ政治家になるという野望が残されていた。
しかし、28歳で経験した「ソクラテスの刑死」が引き金となり、哲学の道へ回心する。
哲学者が職業として認められてなかった時代に、プラトンは師の遺志を守るために、
自ら厳しい生活を選び取ったといえる。政治的な理由による危険回避のため、
メガラ、キュレネ、エジプトなどを遍歴。
この頃より、ソクラテスを主人公とするいくつかの対話篇を書き始める。

「ポリテイア(理想国)」の構想を進めてはいたものの、
実践的政治活動には決して身を乗り出さなかった。
「何をするにも、哲学が根底になければならない」という堅い決意があった。
この頃、プラトンの中に確立されていたのは、「哲学者が政治をするか、
政治家が哲学をするかしない限り、人類は救われない」という思想だった。
これが後に、『国家』 篇や『法律』篇の中で表明される。

プラトンがソクラテスの二番煎じで終わらなかったのはなぜか。
ひとつには、芸術的素質があったことが挙げられる。
その感性が結実した「イデア論」は、彼が編み出した哲学の中で、
最も美しい孤高の業であった。
理性によってのみ認識されうる実在、永遠不変の価値を「イデア」と呼び、
それに基づいて論じた認識・道徳・国家・宇宙についての話は、
どんな哲学者とも違う未来を描き出した。
もうひとつは、プラトンに現実を配慮する精神が培われていたこと。
「哲学者の任務は、イデア界を認識して、
現実の世界をその理想世界に近づけること」という自身への課題は、
アカデメイアの創立に結実する。
アカデメイアは、 学問の府として900年近く存続して、
多くの政治家・哲学者・数学者・天文学者を育てた。
学問の世界に金字塔を樹立した功績は大きい。

生涯独身を貫いたプラトンの晩年は、孤独に満ち、とても静かだった。
しかし彼の愛知活動への情熱は、決して途絶えることがなく、
外見的な穏やかさとは裏腹に、胸の内では「知」の炎が燃え上がり、
いつまでも哲学的葛藤が繰り返された。本当に最後の最後の瞬間まで、
ペンを握っていたと伝えられるほどだ。公表された彼の著作は、
古代哲学の著作としては、例外的にほぼ完全な形で、今日に残されている。

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