meeting with remarkable people [037]
聖徳太子
574-622

国の王でもなく、教祖でもなく、それでもなお、
日本の長い歴史の中で、最も多くの尊敬を集めてきた聖人、
それが聖徳太子だ。
「和を以て、貴としとなす」という、日本初の憲法を定め、
「日出る処の天子」として、世界にその名を位置づけた人。
多くの謎に包まれる聖徳太子とは、いかなる人物だったのか。

5世紀、日本は飛鳥の地に大和朝廷を築き、
天皇を中心とする、新しい時代を迎えていた。
後の用明天皇の后、穴穂部間人皇后は、
西方の救世観世音菩薩が現れる不思議な夢を見た。
そして、574年、馬屋の前で産み落としたのが、
後の聖徳太子、厩戸皇子(うまやどのみこ)である。
その顔にはすでに貴人の相が現れ、
その身からは絶えず芳香が放たれたという。

彼は幼い頃から、常人ならざる能力を持っていた。
生後4ヶ月で言葉をあやつり、2歳の時には東の空にむかい、
手を合わせ「南無仏」と唱える仕草し、それは7歳まで続いた。
11歳の時には、36人の語る内容を一語として聞きもらさず、
すべて反復することができたという。
その年、父である用明天皇が即位。
しかし、病弱だった父は、たった2年でこの世を去る。
豪族の勢力は、仏教帰依を反対する物部氏、
仏教を擁護する蘇我氏に二分されていた。

後を継いだ祟峻天皇は、この争いに巻き込まれ殺害。
その後には、女性ながら信望の厚かった推古天皇が着く。
推古天皇は、自らを象徴的な立場に置き、
厩戸皇子へ摂政になることを嘆願、彼は誇示したものの、
ついにはそれを受けた。
こうして、推古天皇、厩戸皇子、蘇我馬子による、
新体制が誕生した。
聖徳太子、19歳の時である。

蘇我氏と皇子は、仏教の普及を開始する。
高句麗から仏僧を迎え、27歳の時には、斑鳩宮を建立。
政治の基調に仏教を採用した。
603年、29歳の時には冠位十二階、
翌年には、日本初の憲法十七条を制定。
理想の国家を築くための道徳的規範を説く。

後に広まった伝説では、聖徳太子は未来を透視する力を持ち、
しばしば夢殿で瞑想状態に入り、
仏神と自在に交流しながら、施政を行ったと言われている。
また、自らの前世は中国の仏僧であり、
仏法の理を日本に知らしめるために転生したと言う。

またその知見は尋常ならざるものがあり、
仏教に限らず、神道、老荘思想、儒教、風水・易など、
そのすべてを習得、そこから生まれたエッセンスを、
日本という国に注入していった。

607年、33歳の時、小野妹子を遣隋使として、中国に派遣した。
この時、
「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙なきや」
という文書を、時の皇帝に送った。
また、妹子は聖徳太子の命により、法華経を持ち帰った。
同年、世界最古の木造建築物である、法隆寺を建立。
(670年に火事で焼失、後に再建された。)

40歳前後から、彼は現世を厭い、
浄土への帰還に思いを馳せるようになる。
本来、彼は仏教者であり、血なまぐさい権力抗争に
野心を燃やす人ではなかった。
しかし、日本という国の未来を考えた時、
果たさなければならない使命があると、
摂政としての運命を引き受けたと考えられる。
聖徳太子の象徴とも言える、弥勒菩薩半跏思惟像の、
右手を頬のあたりに当て思考にふける姿は、
彼の深い悲哀、英知、慈悲の心を表しているのかもしれない。

622年、48歳の時、死を予知した太子は、
沐浴し、清い衣服をまとい、斑鳩宮で静かに息をひきとった。
その亡骸はいつまでも、かぐわしい芳香を漂わせていたという。

聖徳太子が日本に残した精神の遺産は、後々まで力を持つ。
密教、真言、禅などの仏教、神道、修験道、儒教に至るまで、
聖徳太子を聖人として扱う宗派は多い。
日本の釈迦、観音の生まれ変わり、未来を予見する預言者。
彼は、日本の未来に、いったい何を見たのだろうか。

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