meeting with remarkable people [042]
空海
774-835

日本宗教史の中で、ひときわ光を放つ異能の人、空海。
中国から密教の極意を持ち帰り真言宗の開祖となったが、
また弘法大師として数々の伝説を日本各地に残したことでも知られている。
時は平安、まだ未明の時期にあった日本にとって、彼の存在はあまりにも大きい。

774年、讃岐の国に彼は生まれた。
父はこの地の豪族佐伯氏、幼名は真魚(まお)といった。
彼は幼い頃から神童として知れ渡り、
伯父である阿刀大足は彼が15歳になると手元に呼び寄せ、論語、孝経などを学ばせた。
18歳で都の大学へ入学、すば抜けた知識の吸収力を見せた。
このまま行けば、将来、佐伯一族の中でも最高位の官吏になれると周囲の期待を一心に集めたが、
本質的な問いを魂の根源に持っていた彼は、自分の将来に疑問を持つ。
そしてぼろをまとった一人の沙門との出会いが、彼の運命を変えた。
その沙門から「虚空蔵求聞持法」を授かった真魚は、他者との交わりを絶ち、
ひとり大自然の中で荒行を始めた。いくつかの神秘体験を経て、彼は仏教へ帰依。
797年、24歳の時、「三教指帰」を著した。
その後、大日経に出会った彼は、密教を学びに唐へ渡ることを決意した。

804年、31歳の時、遣唐使に参加する資格を得るため、東大寺で得度、名を空海と改めた。
翌月には私費による留学僧として遣唐船に乗り込む。
嵐が起こり、他の船は沈没、しかし空海の乗る船は奇跡的に唐の最南部に漂着した。
苦労の末、長安に辿り着いた空海は、おそろしい勢いであらゆる知識を吸収していった。
梵語・儒教・道教・景教・回教・ゾロアスター教・マニ教…。
密教の奥義を体得するためには、まず世界の事象すべてを知る必要があると彼は考えたのだ。
日本から天才的な僧が来ているという噂は、
やがて密教の牙城、青龍時の阿砂利(あじゃり)恵果(けいか)の元に届いた。
そして恵果と空海の出会い。通常なら数十年はかかると言われる灌頂(かんじょう)を、
他の僧にではなく空海に授けることを、恵果はその瞬間に決意。
わずか3ヶ月間でその全てを伝授したという。
本来なら遣唐使として20年を唐で学ぶ義務があるのだが、
空海は日本に密教を広めるため帰国を決意。
806年、33歳の時、違法を承知で日本に帰ってきたのだった。

都へ入ることを拒否された空海は、九州・四国などを巡りながら時期を待った。
天皇家の覇権争い「薬子の変」が起こった時、
嵯峨天皇は空海の法力を借りて政権の座に収まったことから、
空海は都での圧倒的なポジションを手中にすることとなった。
空海が居を定めた高雄山寺には、灌頂を受けるべく続々と人々が押し寄せた。
その中には、ほぼ同時期に国のエリートとして唐に渡った天台宗の開祖、最澄の姿もあった。
空海と最澄、この対照的な二人の人生は、常に人々の関心を集めてきた。

816年、43歳の時、真言密教の基盤を固めた空海は、
修行の場を高野山に定め、帝より下賜された。
また東寺、宮中真言院や後七日御修法の設営によって真言密教を国家仏教として定着させた。
828年、55歳の時には、庶民のための学校、綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)を設立。
諸国を回り困難な土木工事を短期間で完遂したりと、超人的な数々の業績を残した。
835年、62歳の時、幕を閉じる時期が来たことを察した空海は、
高野山にこもり、即身成仏という究極の行を達成した。

空海が若かりし頃、「もし、自分に仏の道を人に説くほどの価値があるなら
生命を存続させたまえ」と山頂より身を投げ、奇跡的に助かったという話が残っている。
あらゆる面で天才的な能力を発揮した彼だが、その器を最も有効に活かしたのは、
大きな流れに身をまかせることのできる力だったのかもしれない。
空海が体験したという数々の神秘体験、その時、彼は何を見、何を感じたのだろうか。

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