meeting with remarkable people [043]
フョードル・M・ドストエフスキー
1821-1881

古今東西にあまたいる文豪の中で、
誰もが知っている作家のひとりがドストエフスキーだ。
深層意識まで照射する心理描写の鋭さ、
善悪を合わせ持った人間に関する深い洞察、
神の存在を問う思想性、
彼が生み出した偉大な作品群は、どのようにして生まれたのか。

1821年、ドストエフスキーは、モスクワの貧民療養病院の
医師ミハイル・ドストエフスキーの二男として生まれた。
父は怒りっぽく気難しい人であったが、母のマリアは穏和で、
篤い信仰の持ち主だった。
父は後年、地主貴族となり、農奴100人を持つ身分になった。
16歳の時、7人の子どもを育てた母が、結核で病死。
また、18歳の時には、領地に引きこもっていた父が、
領地で農奴たちに殺害されるという事件が起こる。
百姓やその娘に虐待と暴行を繰り返し、殺されるほどの恨みを
買った父の悪行に、若い彼は大きなショックを受けた。
彼の持病となる癲癇(てんかん)の最初の発作も
この時に起きたと言われている。

その後、ドストエフスキーは中央工兵学校を卒業し、
工兵局製図室に勤務するが、なじめず翌年辞職。
彼の関心と熱意は文学に集中していった。
1845年、24歳の時、書き上げた処女作『貧しき人びと』は、
絶賛を受け、文学史上の一事件にさえなった。
原稿を徹夜で読んだ、
詩人ネクラーソフと友人グリゴローヴッチが、
感動のあまり夜の明けるのも待ちきれずに彼のアパートを訪ね、
この青年の前途を祝したエピソードが有名である。

1846年、25歳の時、農奴制度の廃止や裁判・出版制度の改革を
掲げる空想的(キリスト教的)秘密結社を主催する
ペトラシェフスキーに出会い、
彼らの勉強会・社会革命活動に参加し始めた。
この行動が元で、28歳の時、会員と共に逮捕。
ドストエフスキーを含む21名が死刑を宣告される。
銃殺刑の直前、処刑場に皇帝の特赦の勅命が到着、死を免れた。
絶対的な死と直面したこの体験は、彼の人生観と作品に
大きな影響を与えた。
4年間のシベリア流刑送りの身になった彼は、
劣悪な環境のもと、過酷な囚役の監獄共同生活を送った。
引き続いてセミパラチンスクのシベリア守備大隊に約5年服役。
その地で知り合った人妻マリアと恋愛に陥り、
36歳の時、紆余曲折を経て未亡人となったマリアと結婚。
1859年、38歳の時、ペテルプルグ居住を許され、
10年ぶりに作家活動に復帰した。

1861年、40歳の時、兄のミハイルと雑誌「時代」発刊。
『虐げられた人びと』によって、再び文壇に返り咲いたが、
数年後に、結核で療養中の妻、続いて兄のミハイルが他界した。
1866年、45歳の時、速記者アンナに出会い、再婚。
彼女は、かしこい良妻として、彼の生涯の終わりまで
良きパートナーとなった。
結婚の二ヶ月後より、四年と二ヶ月余りにわたって
ヨーロッパに滞在、放浪生活を送ることとなる。
この間に、長編『白痴』を執筆・完成、
次の長編『悪霊』も構想・連載された。
アンナとの間には4人の子供をもうけたが、
そのうちの二人を、幼少期に失っている

1876年、55歳の時、月刊個人雑誌「作家の日記」を刊行。
晩年の彼は政治問題、社会問題についても積極的に発言した。
1881年、59歳の時、最後の大作『カラマーゾフの兄弟』の完成を
得たわずか80日後に、肺気腫が悪化、
自宅の書斎で妻子や知人に看取られながら息をひきとった。
葬儀には、学生や乞食たちも含めた約三万人の人々が
沿道に押し寄せ、棺のあとに従ったという。

彼の作品の中には、魂の根源まで降りてゆく
強靱な探求心がある。
それは「魂のリアリズム」に他ならない。
今もなお私達を揺さぶり続ける、時間と空間の集中性。
彼は、未来社会の運命をも透視していたのだろうか。

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