meeting with remarkable people [044]
ヴィクトール・エミール・フランクル
1905-1997

極限状態の中では、人間の本質がむき出しになる。
ナチス強制収容所の体験を綴った『夜と霧』で、
人間の真の可能性を示してくれたフランクルとは、
どんな人物だったのだろうか。

1905年、ウィーンに生まれる。
ユダヤ人である父は完全主義者で正義の人、
母は名門出の感情豊かな女性だった。
彼は幼い頃から、質問ばかりしていたので
女性教師に「思想家さん」と呼ばれていた。

思春期は文学少年だったが、
15歳で催眠術に興味をもち、早くも応用心理学を志す。
この頃、フロイトと手紙のやり取りを始める。
フロイトは熱心なこの若者に、何度も丁寧な返事で答えた。
1924年、19歳の時、彼の書いた
「しぐさによる肯定と否定の成り立ちについて」が
フロイトにより、『国際精神分析ジャーナル』に掲載。

ウィーン大学医学部に入学すると、アドラーに師事。
しかし、徐々に正統派の精神医学に限界を感じ始める。
ロゴセラピーを中心にした彼の活動は、
「第三ウィーン学派」と呼ばれるようになっていった。
このため、アドラーとの関係は徐々に悪化。
1929年、24歳の時、個人心理学協会から除名される。
この「隔離」は非常に大きな意味を持っていた。
彼は、理論から実践へその関心を移していった。
青少年相談所を設け、
誰でも悩みを打ち明けられる場を提供。
ライヒとも協力し、性の問題にも積極的に携わった。
その結果、自殺する生徒が、当時一人も出なくなったという。
医学博士の学位取得後、精神病院で、
通称「自殺者病棟」の主任医師を努めた。
当時の一年間に担当した患者は3000人は下らなかった。

1937年、32歳の時、精神・神経科の専門医として開業。
数ヶ月後、ヒトラーがオーストリアに侵攻する。
アメリカへの入国を可能にするビザを入手できたが、
強制収容所への抑留の運命にある両親の元に留まることを選択。
ナチ親衛隊将校の尋問の際に、逆説志向のロゴセラピーで
広場恐怖症を治す技法を伝授、
そのおかげで1年間、両親の収容所行きを引き延ばせた。
1941年、36歳の時、看護婦のティリーと結婚。
抑留の覚悟を固めた時、『医師による魂の癒し』の初稿を書く。
1942年、37歳の時、ついにテレージエンシュタット
強制収容所に連行。
2年後には、アウシュヴィッツ行きを命じられる。
移送を免れたティリーは、フランクルと同行を望んだという。
誕生日に収容所の仲間が、ちびた鉛筆と紙数枚を
どこからかかきあつめてくれた。
チフスによる高熱にうなされながら、
彼は「医師による魂の癒し」の再構成を始める。
1945年、40歳の時、強制収容所から解放。
しかし、妻ティリーは亡くなっていた。
強制収容所の体験を9日間で口述した『夜と霧』は、
後にアメリカで「ブックオブイヤー」に5度選ばれた。

ウィーン市立病院神経科部長となった彼は、
42歳の時、エリーと再婚。
家族の死を乗り越え、旺盛な執筆活動を開始する。
200以上の大学から講演に招かれ、
世界一周の講演旅行も4回行った。
1955年、50歳の時、ウィーン大学教授就任。
1961年、56歳の時、ハーバード大学の客員教授、
その他にも、27の名誉博士号を与えられた。
67歳の時、飛行機の操縦レッスンを受け、
その数ヶ月後単独飛行を行う。
また、80歳になるまでロッククライミングが
情熱の対象だった。
1995年、90歳の時、誕生日記念に回想録を出版。
ウィーン大学で最後の講義が行われた。
1997年、92歳の時、ウィーンにて心臓病で死す。

彼は、私たち一人一人に宿る「ロゴス」(愛、生命力、原理)
を目覚めさせることに生涯を費やし、
多くの人々の心の傷を癒しつづけた。
自らの体験を人類の資産へと結晶化させた彼の業績は、
はかりしれない。

この人物についての関連書籍等はこちら → click!

BOOK CLUB KAI  [ home ] [ contact ] [ link ] [ privacy policy]・・・ [ back ] [ page top ]
Copyright (c) 1989-2002 BOOK CLUB KAI  All Rights Reserved.