meeting with remarkable people [057]
ノストラダムス
1503-1566

時代の節目になると、必ずと言っていい程、
注目されるノストラダムスの大予言。
彼の世紀末思想は、この日本でも、
大きな注目を浴びた。
はたして彼は、本当に未来を見ていたのか?
謎に包まれる彼の一生を追ってみたい。

1503年、南フランス、サン・レミ・ド・プロヴァンスで、
公証人だった父の長男として生まれる。
本名、ミシェル・ド・ノートルダム。
アヴィニョンのユダヤ商人であった祖父の代に、
カトリックに改宗したと言われている。

1518年、18歳の時、アヴィニョン大学で自由七科を学んだ。
しかし2年後、学業を中断、以降の数年間、
いろいろな土地を巡って薬草の採取、研究をし、
知識の収集に努めた。
1529年、26歳の時、モンペリエ大学の医学部に入学。
古典的な教養と新しい知識を身につけた医師として、
実践の場に臨むようになる。

1531年、28歳の時、アジャンの町で、
アンリエット・ダンコスと最初の結婚。
数年後、妻と子供をペストで失うという悲劇に出会う。
放浪の旅に出た彼は、巡回医師として各地を回りながら、
患者をみるようになった。
1546年、43歳の時、ペストが猛威をふるっていた
エクス・アン・プロヴァンスに招かれ、治療に当たる。
翌年、サロン=ド=プロヴァンスに居を移すと、
アンヌ・ポンサルドと二度目の結婚。
アンヌとの間には、3男3女の6人の子どもを授かった。

1549年、46歳の時、暦『アルマナック』を刊行。
天気予報や、日の出日入りの時刻など、
実用的な生活の知恵をのせたものだったが、
これが大当たりとなり、以降1567年まで、
毎年ベストセラーとなった。
このアルマナックから、「ノストラダムス」の名を
用いるようになる。

1550年、47歳の時、「ヒエログリフ」に関する手稿を執筆。
1555年、52歳の時、『化粧品とジャム論』を出版。
同年、『ミシェル・ノストラダムス氏の予言集』の
初版を刊行した。
フランス国王アンリ2世と、王妃カトリーヌが本に関心を寄せ、
宮廷に招かれ謁見する。
ノストラダムスは、3人の王子の将来について、
正確に予言したといわれる。
以後、予言集は36版もの出版が続けられた。
全10巻に100篇の四行詩が含まれ、
印刷術が普及した頃の最初のベストセラーとなる。

名声を得たノストラダムスは、宮廷で、占星術を元にした国家の
運命などの助言を、君主達に行うことになる。
1557年、『ガレノス釈義』を出版。
この頃から、ノストラダムスを非難する文書や、
「予言書」のまがい物が複数出始めた。
1559年、56歳の時、フランス国王アンリ2世の事故死を
予言したとして、自書の宣伝をする。
この王の不慮の死は、人々の間に黙示録的な終末思想を
普及させた。
1561年、58歳の時、彼はルター主義者の嫌疑をかけられ、
暴徒と化した大衆から逃れるため、
2ヶ月間、アヴィニョンに避難せざるをえなくなる。
翌年、宗教戦争が勃発。

1564年、61歳の時、アンリ2世の後を継いだシャルル9世と、
その母カトリーヌは、彼に王の顧問、侍医という称号を与える。
しかし、ノストラダムスの影響は宮廷内に限られていたという。
1566年、62歳の時、公証人を呼んで遺言書を口述。
この遺言書には、さまざまなケースを仮定して、
それぞれに細かな指示を残したという。
同年、死去。
サン・ローラン教会の墓に葬られた。

伝説的な逸話や、様々な解釈によって伝えられる
ノストラダムスという予言者。
その後の世界史を激しく揺り動かした大事件を
詩によって予言したとも言われているが、
その真偽は定かではない。
しかし、人々の共同無意識を刺激し、
表面へと浮かび上がらせる彼の言葉には、
何らかの力が込められていると言えるのかもしれない。



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