meeting with remarkable people [058]
レオナルド・ダ・ヴィンチ
1452-1519

人類史上まれに見る天才、ダ・ヴィンチ。
「モナ・リザ」「最後の晩餐」などの傑作を残した画家であり、
彫刻家・建築家であり、また天文学・物理学にまで考察の翼を広げた。
謎も多いこの人物を簡潔に表現することは不可能に近いが、
史実に残るその一端に光を当ててみたい。

1452年、レオナルドはイタリアのヴィンチ村で生まれた。
父は裕福な公証人だったが、母カテリーナは正式な妻ではない。
私生児として生まれたレオナルドは、父の元で育てられる。
14歳の時、父親に連れられてフィレンツェへ行き、
画家見習いとしてアンドレア・デル・ヴェロッキオに師事。
21歳の時、ヴェロッキオの『キリストの洗礼』で天使の部分を描いたが、
これは師匠であるヴェロッキオを驚愕させるものであった。

1482年、30歳の時、
ミラノ公ルドヴィーコ・イル・モーロに仕えながら、自らの工房を開いた。
この間、『岩窟の聖母』『白貂を抱く女性』など、
独自の視点と技法による作品を残している。1490年、
38歳の時、サライ(本名ジャコモ)という美しい少年を弟子にする。
サライとは子悪魔という意味。
レオナルドは生涯女性と親しい関係になることはなく独身だったことから、
同性愛者として見られることもあった。

壮年期に入った彼は、旺盛な好奇心によって、
様々な分野に関心を示した。
人体の解剖に立ち会い、
極めて詳細まで書き込んだ解剖図を多数作成。
1492年頃に描かれた『ウィトルウィウス的人間』は、
「人体は円と正方形に内接する」という記述を表現したものである。
その他にも、天文学や物理学についての探求など、
彼の頭脳はとどまることを知らなかった。
1496年、44歳の時には、
自ら発明した機械で飛ぼうとして失敗した記録が残っている。

1498年、45歳の時、『最後の晩餐』が完成。
近年、修復されると、
一般的な聖書的表現と矛盾する数々の謎が浮かび上がった。
1499年、47歳の時、イル・モーロが没落したため、ミラノを後にする。
数ヶ月間マントヴァとヴェネツィアを旅した後、
ふたたびフィレンツェに戻る。

1502年、50歳の時、
建築家であり、軍事技術者でもあるチェーザレ・ボルジアに、
軍事顧問兼技術者として雇われる。
アルノ川水路変更計画や、ヴェッキオ宮壁画などの仕事に関わる。
1504年、52歳の時、『モナリザ』を描き始める。
当時ローマでは、ラファエロやミケランジェロが活動していた。
ラファエロはレオナルドの絵を模写するなど影響を受けていたが、
ミケランジェロは終生のライバルとしてレオナルドを意識していたらしい。
1513年、61歳の時、ミラノを離れ、
ジュリアーノ・ディ・メディチの後援の元、
ヴァチカンのベルヴェデーレ宮殿に住む。
しかし、3年後、ジュリアーノが死亡。
養子となっていたメルツィを連れて、フランスへ移る。
1519年、67歳の時、死去。
彼の希望により60人の乞食とともに棺に入れられた。
レオナルドはアンボワーズにある聖フロランタン教会に埋葬されたが、
その後、墓が暴かれてしまい、遺骨の行方はわかっていない。

レオナルドには、数々の謎が残っている。
絵画に込められた多くの隠喩は、
当時のローマカトリック教会を困惑させるものであった。
また彼が残した13000ページに及ぶノートは、
鏡文字で記述されていたことも興味深い。
そのノートが研究されるようになったのは19世紀末以降のこと。
現在、その一部は、ビル・ゲイツがオークションで落札。
世界中で公開されるようになっている。
時代より500年ほど先行していた彼の頭脳は、
あたかも未来に向けて、そのメッセージを発していたかのようにも見える。
彼の謎をフィクションに取り入れた、
小説『ダ・ヴィンチ・コード』は、世界中でベストセラーになった。
あるいは、21世紀となった今こそ、
ダ・ヴィンチの天才性が成果を結ぶ時と言えるのかもしれない。



この人物についての関連書籍等はこちら → click!

BOOK CLUB KAI  [ home ] [ contact ] [ link ] [ privacy policy]・・・ [ back ] [ page top ]
Copyright (c) 1989-2006 BOOK CLUB KAI  All Rights Reserved.