meeting with remarkable people [059]
ジャン・アルチュール・ランボー
1854-1891

何者にも到達できない作品を生み出した早熟の天才詩人。
その作品は、15歳から19歳にかけて作られた。
彗星の如く消えていったランボーの一生とは、
どのようなものだったのか。

1854年、ジャン・アルチュール・ランボーは、フランス北西部
シャルルヴィルに生まれた。
父は陸軍の大尉、母は百姓の出身。
軍人気質の大雑把な父と、熱心なカトリック教徒で頑固な母、
夫婦仲は悪かった。
ランボーが6歳の時、母は別居を決意。
1862年、8歳の時、彼は私立ロサ学塾に入学。
幼年期のランボーは、母親の厳しいしつけにより、
学校では優秀な成績を納めた。

1865年、11歳の時、高等中学校へ入学。
わずか3カ月で飛び級して、周囲の大人を驚かせた。
母の影響もあり、彼は熱心な信仰に目覚めたが、
長続きせず、異端の書とされたラテン詩人達の詩を読み耽った。
成績は変わらず優秀で、兄のフレデリックを抜かして進級、
教師達は驚くとともに、彼を神童と称えた。
1869年、15歳の時、アカデミー主催の学力コンクールで、
ラテン語の詩を作り一等賞を取る。
翌年、フランス語の詩『みなし児たちのお年玉』が
雑誌に掲載される。

1870年、16歳の時、普仏戦争勃発。
彼も革命思想に目覚め始めた。
この頃、ボードレールなどの現代作家の作品を好んで読み始める。
パリが包囲される直前の8月に学業を捨てて家出。
スパイ容疑で投獄されたりしながらも、
放浪の味を占めた彼は、何度も家出を繰り返した。
1871年、17歳の時、パリで「革命散兵隊」に加盟。
しかし、彼の描いていたイメージとは程遠く、
落胆した彼は、革命への情熱も失った。
この期間は、ランボーの一生のうちで
最も多くの作品を書いた時期でもあった。

その後シャルルヴィルへ戻った彼は、詩を書くことに没頭。
大作『酔いどれ船』を完成させる。
この作品を読んだヴェルレーヌは、ランボーの才能に驚き、
パリに来るようすすめた。
ランボーは、再びパリへ向かい、ヴェルレーヌと同居する。
ヴェルレーヌは、どこへ行くにも彼を同席させ、
文壇、詩壇の大家たちに紹介したが、その生意気な
振る舞いが災いし、決して歓迎されることはなかった。

1872年、18歳の時、この生活にすっかり飽きたランボーは、
酒浸りの退廃的な日々を過ごした。
ヴェルレーヌは妻子を捨て、彼と共に放浪することを選んだ。
ランボーはヴェルレーヌのもとを去ろうとしたが、
絶望と嫉妬に狂ったヴェルレーヌは、
自殺のために用意していた拳銃で、彼を撃つ。
1発がランボーの左手首に当り、彼は入院、
ヴェルレーヌは2年の禁固刑を言い渡される。
同年、『地獄の季節』が完成。
しかし彼は、夢から醒めたかのように、
自分の本を暖炉へ投げ込み、この先、二度と筆をとらなかった。

その後、彼は、フランス語教師、兵士などの職業を
転々としながら、ついには貿易商人となる。
1880年、26歳の時、紅海を中心に放浪の末、南アラビアの港で
フランス商人に雇われ、アフリカ奥地へと銃器の取引へ向かう。
この危険な旅を成功させ、富を手にした彼は、
31歳の時、武器商人として独立。
しかし、その成功も長くは続かなかった。
1891年、37歳の時、右膝に骨肉腫ができた。
フランスに戻り、右足を切断して再起を図ったが、
病巣は全身に転移していた。
妹のイザベルが見守るなか、永眠。
この頃、パリでは、かつての作品が注目され、
ランボーの名声が高まっていた。

詩人と武器商人という、
ふたつの対照的な職業に身を置いたランボー。
とてつもない才能は、彼の運命を翻弄し、
その人生を焼き尽くした。
しかし、彼が残した作品は、今もなお、
若き人々の魂を揺さぶらずにはいられない力を持っている。



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