meeting with remarkable people [062]
ジョン・ケージ
1912-1992

現代音楽の旗手として活躍したジョン・ケージ。
革新的な実験、数々の手法は、美術や演劇、文学にまで
多大な影響を与えた。
音楽のあり方を変えた彼の一生を追ってみたい。

1912年、ジョン・ケージは、ロサンジェルスで生まれた。
父親は発明家、家族には牧師や音楽家が多かった。
彼は、幼少の頃から頭の回転が速く、成績も良い少年だった。
8才の時、ピアノに興味を持った彼は、
自分から両親にレッスンを受けさせて欲しいと頼む。

1928年、16才の時、ハイスクールを主席で卒業。
学校始まって以来、最高の成績だった。
1930年、18才の時、音楽以外に、文学、建築、絵画に
興味を持ち始めた彼は、両親を説得してヨーロッパへ渡る。
建築やピアノを学び、ヨーロッパ各地を渡り歩きながら、
絵を描き、詩を書き、作曲を始めた。
翌年、アメリカに帰国したが、
大恐慌のため、家族は苦しい生活を強いられてた。
1933年、21才の時、ニューヨーク移る。
ニュースクールの助手をしながら、最初の作品郡、
『六つの短いインヴェンション』などを創り上げた。
1934年、22才の時、南カリフォルニア大学で作曲を教えていた
シェーンベルグに師事する。
1935年、23才の時、偶然見かけた女性に一目惚れ。
ギリシャ正教司祭の娘ズィニアと結婚する。
この頃、シェーンベルグの発言に対する反発から、
師のもとを去る。
1937年、25才の時、シアトルへ移り住み、
コーニッシュ音楽院で作曲家兼伴奏者のポストに就く。
舞踊振付師マース・カニングハムと知り合う。
ノイズや打楽器に興味を持ち、
パーカッショングループを結成した。
また、水中バレエ団のために、水の中で音楽を聴くことができる
装置を作るなど、発明家としての才能も発揮した。
彼の斬新な手法と活動は、時代と共に注目を浴びるようになった。
第二次世界大戦が始まったが、発明家の父の貢献が認められ、
兵役を免れた彼は、ニューヨークでの活動を続けるが、
33才の時、ズィニアとは離婚。

1948年、36才の時、ブラック・マウンテン・カレッジで、
同じく教師だったバックミンスター・フラーと知り合う。
また、東洋思想を追求するために、
コロンビア大学で、鈴木大拙の禅の講義を受ける。
『易経』を読んで影響を受けた彼は、
サイコロの目で音を決めるという偶然性を取り入れた
『易の音楽』を作曲。
また、ピアノの弦にゴムや木ネジをはさむ
「プリペアド・ピアノ」の手法を開発した。
1952年、40才の時、ウッドストックで、彼の代表作である
沈黙の作品『4分33秒』を初演。
ピアニストが登場し、何も演奏しないで退場するこの作品は、
観客を困惑させた。
1961年、49才の時、初の著書『サイレンス』出版。
後に、現代音楽のバイブルと評価される。

名声を手にした彼だが、経済的には非常に貧しく、
50才をすぎてもアルバイトをしていたという。
1962年、50才の時、以前から興味を持っていたキノコへの
関心が高まり、ニューヨーク菌学会を設立。
同年、初来日し、オノ・ヨーコらと共演している。
晩年になっても、彼の創作意欲は衰えなかった。
コンピュータを使った作曲や、偶然性を取り入れた手法で、
オペラの新しい舞台も作り上げた。
1992年、79歳の時、脳溢血で倒れ意識を失っているところを、
カニングハムが発見、そのまま意識は戻ることなく、
帰らぬ人となった。
ニューヨーク近代美術館で、生誕80年の記念式典を
予定していたが、急遽変更して追悼コンサートが開かれた。

ジョン・ケージは、沈黙を音楽として認識することで、
新しい価値を生みだし、それまでの固定観念に風穴をあけた。
彼の作品は、音楽の枠を超え、
すべての芸術に、問いを投げかけている。



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