meeting with remarkable people [065]
宮沢賢治
1896-1933

現実と夢の世界、生と死の境界を自由に行き来する登場人物たち。
風や光、動物や植物、森羅万象との関わり。
宮沢賢治の作品は、神秘的な魅力に溢れている。
多彩な顔を持つ彼の一生とは、どのようなものだったのか。

1896年、岩手県花巻町に生まれる。
家業は祖父の開店した、質・古着商で、家は富裕だった。
宮沢家は浄土真宗の檀家で、父は熱心な信者だった。
賢治も3歳の頃には、お経を覚え、暗誦するようになった。
彼は、昆虫の標本作りや鉱物、植物採集に熱中。
周囲から「石っこ賢さん」と呼ばれた。

小学では、六学年全甲、優秀賞、精勤賞を受ける。
県立盛岡中学校へ入学すると、寄宿舎自彊寮に入ったが、
17歳の時、舎監排斥運動が起こり、彼も退寮処分となる。
そのため、徳玄寺に居を移した。
1914年、18歳の時、岩手病院に入院していた彼は、
ひとりの看護婦に恋をした。
父に結婚の許可を求めたが、反対された。
また進学についても、やはり父に反対され、
彼は、失恋と将来に対する閉塞感からノイローゼ気味になった。
その姿を見かねた父は、進学を許可。

1915年、19歳の時、盛岡高等農林学校に首席入学を果たした。
翌年、特待生に選ばれ授業料を免除される。
21歳の時、小菅健吉、保阪嘉内、河本義行らと
同人誌「アザリア」を創刊し、短歌、短篇を発表。
父に隠れて日蓮宗を信仰し始めていた賢治は、
父との確執が深まっていく。
学校を卒業後、徴兵検査を受けるが、
結果は第ニ乙種で兵役が免除された。
研究生となり、土性調査に携わる。
この年、妹トシが肺炎のため入院。
賢治も看病のため上京。
この頃から童話創作を開始する。

1919年、23歳の時、人造宝石業の具体的な計画を提示したが、
父から却下され、計画を断念し帰郷。
質・古着商の店番という不本意な生活を送る。
その傍ら、野菜作りに精を出す。
この年、群立農蚕講習所の講師となり、教壇へ立つ。

1921年、25歳の時、家に無断で上京。
日蓮宗の国柱会本部を訪れる。
半年近く街頭で布教活動を行うとともに、
文筆による布教を決意して、創作に励んだ。
しかし、トシの病気の知らせを受け、
トランク一杯の原稿をかかえて帰郷。
以後、数ヶ月に渡り、多数の作品を書いた。
稗貫郡稗貫農学校の教諭となる。 

1922年、26歳の時、『春と修羅』収録詩篇の制作始まる。
この年、妹トシが24歳の若さで他界。
その死は、『永訣の朝』『松の針』『無声慟哭』に綴られた。
翌年、賢治は樺太に旅行しているが、これは、亡くなった
妹トシとの霊的交信を目的とする旅でもあったという。
1924年、28歳の時、『春と修羅』、『注文の多い料理店』を
自費出版。
翌年には、教師を辞めて百姓になる決意を持ち始めた。
農民青年、篤農家に稲作法や土壌学、植物学などの講義を行う
定期集会を開いたり、近隣農村に肥料設計相談所を設置した。
同時に、農民たちに芸術の重要性を唱え、
レコード鑑賞会やコンサートなどを開き、
子どもたちには自作の童話を聞かせた。

1928年、32歳の時、日照りが続き、農村の指導に走り回る。
過労と栄養失調が重なり、ひと月以上、熱と汗に苦しんだ。
翌年、病から回復した彼は、東北砕石工場の技師となり、
宣伝販売のため上京。
しかし、無理がたたって再び発熱。
死を覚悟した彼は、手帳に『雨ニモマケズ』を書き留める。
その後も病床にて意欲的に創作活動を続けたが、
1933年、35歳の時、病状が急変。
「法華経千部を刊行して知人に配布して欲しい」と遺言を残し、
息を引取った。

東洋的な仏教観、西洋的なリリシズム、
大自然への憧憬が複雑に絡み合った賢治の宇宙。
それは、今もなお、時代を超えて、
日本人の魂に響く音色を放ち続けている。



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