meeting with remarkable people [066]
世阿弥
1363-1443

日本の古典芸能である「能」は、
世界の中でも独自の光を放っている。
「静」の中に秘められた「動」。
人間の情と霊性との境界。
幽玄の美。
日本人の霊性を体現するかのような
能を生み出した世阿弥とは、
いかなる人物だったのか。

1363年、日本は室町時代。
伊賀あるいは大和で、
大和猿楽の有力な役者であった観阿弥(かんあみ)の子として、
世阿弥は生まれた。
幼名は鬼夜叉、実名は元清。
後に擬法名的芸名として世阿弥陀仏と称したが、
その略称が世阿弥である。

当時の猿楽(さるがく)は、
物まねなどを中心とした滑稽な笑いの芸から発展し、
次第に高度で複雑なものに変化していた。
「座」が生まれ、寺社の保護を受けるようになり、
武家も好んだ。
観阿弥は旋律にとんだ
「曲舞(くせまい)」を編み出した革新者であった。
世阿弥も、幼少の頃から父の一座に出演。
12歳の世阿弥に目を留めたのが、
室町将軍足利義満である。
義満がこの美少年を寵愛したため、
諸大名も将軍の機嫌をとるために競って世阿弥に贈物をしたという。
文学的教養を備えていた義満という理解者と、
それに連なる武家社会、および貴人達との交流は、
のちの芸術創造の上で、世阿弥に大きな影響を与えた。

1384年、21歳の時、父の観阿弥が死去。
世阿弥は観世座の大夫を引き継ぐこととなる。
その頃の貴族・武家社会には、
幽玄を尊ぶ気風が生まれていた。
能をより洗練された芸術にするため質的向上をはかった世阿弥は、
観客である彼らの好みに合わせ、
言葉、所作、歌舞、物語に、
幽玄美を漂わせる能の形式「夢幻能」を大成させていった。

31歳から36歳にかけては、
世阿弥の全生涯における隆盛期だった。
義満南都春日社参の折の一乗院における猿楽、
三宝院での義満臨場の猿楽、
盛大な勧進猿楽など、
その活躍は凄まじく、名声は一気に広がった。
この時期に書き進めていた『風姿花伝』には、
形成期の能の姿が進行形のように書きとどめられている。

1408年、45歳の時、
最大の擁護者だった義満が没する。
将軍は足利義持がなった。
義持も、鑑賞眼が高い人であったようで、
世阿弥も彼の好みである「冷えたる能」に合わせ、
猿楽を深化させていった。
無文の能への深化を進めた世阿弥だが、
義持は猿楽よりも田楽好みであったため、
以前ほどは恩恵を受けられなくなる。
義持が没し、足利義教の代になると、
次第に世阿弥に対し弾圧が加えられるようになる。

1422年、59歳の時、
観世大夫の座を長男の観世元雅に譲り、
世阿弥自身は出家した。
『花鏡』『至花道』『三道』などの
高度な芸能論を書き上げたのはこの頃である。
しかし足利義教は、世阿弥の甥にあたる音阿弥を重用。
専制的な権威の確立の手段としても世阿弥父子の有する地位を剥奪して、
次々と恩恵を音阿弥に与えた。
御所への出入り禁止、醍醐清滝宮の楽頭職罷免など、
世阿弥・元雅親子は地位と興行地盤を着実に奪われていった。

1432年、69歳の時、
長男の元雅は伊勢安濃津にて客死。
世阿弥自身も72歳の時、
義教の意志による音阿弥への秘伝相伝を拒んだため、
佐渡へ流された。
73歳で記した『金島書』を最後に、
彼の消息は途絶えている。
74歳の1436年まで在島しいたらしいが、
その後、許されて帰洛したのか否かは不明である。

観世座の大夫として、演者として、
また演出家として、幽玄美を理想とした美しい能を創造し、
現代にも生きつづける芸術にまで磨き上げた世阿弥。
世阿弥の作品とされるものには
『高砂』『井筒』『実盛』など50曲近くがあり、
現在も能舞台で上演されている。
「秘すれば花」「ただ美しく柔和なる体、これ幽玄の本体なり」
「見所より見る所の風姿は我が離見也」…。
彼のエッセンスは、現代においても、
日本人の霊性を象徴する深さを持っている。



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