meeting with remarkable people [072]
白隠
1685-1768


自律神経失調症、不眠、ノイローゼなど、
現代人を悩ます心身の不調に、
内観法という手法が使われることがある。
この内観法を確立し、世に知らしめた人こそ、
江戸時代の禅師、白隠だ。
日本人の霊性を元にした心身の健康法は、
いかにして生まれたのか。

1685年、駿河の原(現在の沼津市)、
旅籠屋を営む一家の元、彼は生まれた。
幼名は岩次郎。
母は法華経への信心が深く、彼も幼い頃から共に寺に行き、
仏の教えに耳を傾けた。
聡明だった彼は、次々と四書五経など読了していたが、
同時に世の無常を感じる繊細な少年でもあった。
そのため、14歳ですでに僧になることを志し、
15歳で父母の許しを得て、生家から近い松蔭寺に出家した。
その名を慧鶴(えかく)と改める。

しかし、禅の修行も彼の心を満たすことはできなかった。
失望した彼は、詩文や墨跡に熱中するが、
19歳の時、旅に出て、ひとり純禅の境地を目指した。
5年間におよぶ行脚の後、故郷に戻ると富士山が噴火。
その最中も彼は微動だにせず座禅を続けたという。
1708年、23歳の時、ついにある境地まで到達した。

1710年、25歳の時、慧鶴は信濃の飯山で庵を結んでいた、
正受老人の元を訪れる。
老人は、慧鶴の高慢さを一喝した。
それからは、何を言っても、何をしても、
ののしられ、叩きのめされるという修行の日々が続いた。
慧鶴は理不尽な仕打ちに苦しみながらも、
自らの心を見つめ続けた。
ある日、ひとりの老婆に竹箒で一撃を受け気絶してしまったが、
この体験が、ふいに開眼をもたらした。
その日から世界が一変した。
正受老人は、その後、彼を我が子のようにかわいがったという。

こうして大悟に至ったはずの慧鶴だが、
しだいに精神状態が悪化、呼吸不全、不眠に苦しむことになる。
禅病と呼ばれたこの精神疾患は、
いわゆるスピリチュアル・エマージェンシーだったのだろう。
彼は、噂に聞いた京都の白幽子という仙人を訪ねた。
慧鶴は、道教の丹田呼吸法や内観法を学び、
この危機を乗り越えることができた。
白幽子という人物は、彼の創作であったとも言われているが、
そもそも禅の公案自体が、論理のトリックを使って、
不明を解くもの。
彼自身による工夫が、ここにあったのかもしれない。
この時の教えを記した『夜船閑話』は、
内観の方法と共に、禅の健康法を説いた名著として、
現代に至るまで、長く読み継がれている。

34歳で白隠と名乗るようになった彼は、
後半生を日本各地の行脚と説法に費やす。
時には廃寺のような破れ庵に腰をすえ、
集る民すべてを拒まず受け入れた。
彼の教えは、それまでの難解で激しい禅と違い、
柔らかさをもっていた。
しだいに彼の評判を聞きつけて人々が集まるようになった。
衰退していた臨済宗も復興させ、
「駿河には過ぎたるものが二つあり、富士のお山に原の白隠」
とまで歌われるようになった。
彼の著した『坐禅和讃』は、今も坐禅の折に読誦されている。

生涯をかけて禅の修行にはげんだ白陰は、
自ら36回の悟りを開いたと語っている。
他の修行者の助けになるよう、晩年に至るまで、
公案を整理し、書物として残していった。
有名な公案「隻手の音声」は、彼の作による。
また、病僧や武士、法華宗の老尼に宛てた書を中心とする
『遠羅天釜(おらてがま)』も、
彼の代表作として知られている。
1768年、84歳の時、故郷の松蔭寺にて示寂。

白陰は、自らの精神的苦しみと克服のプロセスを、
他者をサポートする道へと昇華させた。
現代に生きる日本人にとっても、彼の残した足跡は、
大きな支えとなるはずだ。
その証拠に、心理療法、ホリスティック医学などの分野で、
彼の著作の価値が再認識されている。




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