meeting with remarkable people [074]
フランツ・カフカ
11883-1924

世界の不条理さを、独自の感性で表現したカフカ。
彼の現実を超越する手法は、
虚無感や非現実感に包まれる現代人の知性に、
強く訴えかけるものがある。
世界で絶賛された文学者カフカとは、いかなる人物だったのか。

1883年、プラハで彼は生まれた。
ユダヤ人の父は、活力あふれる商人で、小間物問屋を営み、
経営者としても、家長としても、強い力を発揮していた。
内気で瞑想的な気質を持つ母の血筋を受け継いだカフカは、
この強い父親に対して、生涯、抵抗感を持っていたようだ。

当時、オーストリア・ハンガリー帝国の領域にあったプラハで、
カフカはドイツ語で教育を受け、青年期まで、
ほとんど自らをユダヤ人として意識することはなかった。
1901年、18歳の時、プラハ大学に入学すると、
興味のあった化学や美術史、文学を学ぶが、
最終的には、父の意志に従い、法律を専攻した。
この時期、生涯の友となる、マックス・ブロートと出会う。

1906年、23歳の時、法学博士号を取得。
25歳の時、王立労災保険局に就職した。
以後、カフカはほぼ生涯に渡ってこの職場で勤め続ける。
比較的時間に余裕のある職場で、地位としてもかなり優遇され、
彼の勤務態度は非常にまじめだった。
早朝から働き、午後3時頃までに仕事を終えると、
午後から深夜まで、個人的な文章を書いていた。
彼の書く日記は、深い内面生活を形成してゆく
創作上の訓練の場であった。
書くことだけが、かろうじて生きることを支えているという、
人間としての極限状況が読み取れる。

1909年、26歳の時、『祈るひととの対話』、
『酔っぱらいとの対話』をヒューペリオン誌に発表。
1912年、29歳の時、最初の恋人、
フェリーツェ・バウアーと出会う。
この年、『判決』『火夫』『変身』を執筆。
また、短編集『観察』を出版している。

1914年、31歳の時、フェリーツェと婚約。
しかし、翌月、婚約を破棄。
彼女との関係は、カフカの創作意欲をかき立てたが、
同時に苦悩も生むものだった。
この頃、『アメリカ(失踪者)』『審判』『流刑地にて』などを
次々と執筆し、文学界からの評価も高まりつつあった。
ただ、カフカ自身は、自分の作品に満足できず、
多くの作品を、自ら焼き捨てていたようだ。
自分の生命を満足に生きていないという罪責感情が、
常に彼の心の中にはあったと思われる。

1917年、34歳の時、カフカは「錬金術師小路」の
小部屋に引っ越し、創作活動を始めている。
30代に入ってから、ユダヤ人としてのアイデンティティに
目覚めた彼は、マルティン・ブーバーに宛てて、
書きためた短編を送ってもいる。
また、フェリーツェと二度目の婚約をするが、
直後に、結核による喀血のため、再び婚約を破棄。
その後、彼は3人の女性と関係を持つが、
いずれも、家庭を持つまでには至らなかった。

様々な保養地を回りながら、執筆を続けていたカフカは、
1923年、40歳の時、半年だけベルリンに住む。
しかし、翌年、健康状態が悪化、
ウィーン郊外のサナトリウムで療養中、
喉頭結核のため、死去した。
41歳だった。

その後、第二次世界大戦が起こり、ユダヤ人だったカフカの
作品も弾圧されかねない状況にあった。
親友ブロートは、カフカの遺稿をナチスの手から守り、
戦後の1958年、カフカの作品を整理し、全集を刊行。
これがサルトルなどの知識人に絶賛され、
その後、世界的なブームとなった。

どこにも安住できない、孤独なアイデンティティ。
現実と非現実が混じり合う、境界の消滅。
カフカは、それまでの人間像、社会観の不確実性を鋭く見抜き、
文学という形に結晶して見せた。
もしかしたら、彼の作品こそ、近代から現代へと時代が移る、
ターニング・ポイントだったのかもしれない。



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