meeting with remarkable people [076]
一休宗純
1394-1481


とんち話で親しまれている「一休さん」。
知恵の力で、問題を解決し、権力をはねのける、
その話のほとんどは、江戸時代に創作されたものだ。
実際の、室町時代に生きた臨済宗の禅僧一休は、
煩悶と反逆に満ちた、きわどい人生を送った人物だ。
一休の生涯には、二つの大きな流れがある。
早熟の天才として知を極めた若年期と、
あらゆる権威や戒律を否定し、風狂に生きた壮年〜晩年期だ。

1394年、一休は、南北朝の動乱がようやく終息しつつあった
室町時代初期に、京都で生まれた。
幼名千菊丸。
後小松天皇の落胤だと言われているが、
足利義満の子ではないかという説もある。

わずか6歳で、京都の安国寺に預けられ仏門に入った彼は、
幼い頃から詩才を発揮、都中の評判となった。
仏法の習得もはやく、早熟の天才として認められていた。
1410年、17歳の時、謙翁宗為(けんおうそうい)の門下に入り、
戒名を宗純と改める。
しかし、20歳の時、彼は自殺未遂を起こす。
仏の道を歩んでも、消えない虚無感。
複雑な生まれ育ち。
師の逝去。
若き一休の心は、それからしばらく、
暗闇の中をさまよった。

1415年、21歳の時、京都の大徳寺の高僧、華叟(かそう)の
弟子となった彼は、公案の答えとして、
「「有ろじより無ろじへ帰る一休み雨ふらば降れ
風ふかば吹け」と答える。
これを聞いた師は、彼に「一休」という道号を授けた。

彼の暗闇に光をもたらしたのは、意外な出来事だった。
1420年、26歳の時、ある夜、琵琶湖のほとりで
カラスの鳴き声を聞いて、大悟。
師は、一休に印可証を渡そうとしたが、彼はこれを断った。
師は、「ばか者」と笑いながら、彼を送り出したという。
その後は、一転して寺にも住まず、
民衆の中で風狂の生活を送るようになる。
そして、組織化した日本の仏教界に疑問を持ち、
真の禅とは何かを、自らの奇行を持って示そうとした。

たとえば、正月早々、どくろを竹棒に差し、
「この世の無常はこの通り、ご用心」と説法したり、
由来ある文書を火中に投じたり、
戒律で禁じられている、飲酒、肉食、女犯を行った。
これらの人々の度肝を抜く行為は、
物事の本質を見極める心こそ禅の精神にほかならないという、
彼の信念を生き様で見せたものだった。

あえて粗末な衣服をまとい、権威を否定し、
諧謔の精神をもって人々と接する彼の教えは、
一般庶民から絶大な支持を受けるようになった。
そのうちに、多くの大名や、公家、商人、文化人なども、
競って彼の元に参禅するようになる。

1436年、42歳の時、「狂雲」という名で、
詩・狂歌・書画を書くようになる。
奇行の方が有名になっていた一休だが、
本来、彼は師画の才能に秀でていた人物。
彼の作品は、その奥深さから、
後の時代に、非常に高く評価されるようになる。

晩年に至るまで、質素な草庵に住み続けた一休だが、
1470年、76歳の時、住吉の薬師堂で、盲目の森女と出会い、
共に暮らすようになる。
1480年、86歳の時、自らの作品を『狂雲集』に編む。
1481年、88歳の時、酬恩庵(通称一休寺)にて示寂。
臨終の言葉は、「死にとうない」だったという。

権威をすべてひっくりかえす彼の風狂の精神は、
仏教のみならず、日本の精神文化に新しい流れを起こした。
「わび・さび」などに象徴される日本独特のミニマリズムも、
この時代の禅の成熟がなければ、生まれなかっただろう。
そもそも、唐代に生まれた禅は、
「仏陀に会ったら、仏陀を殺せ」という言葉が指すように、
仏教の形骸化に鉄槌を下すものだった。
つまり、一休は真に正統な禅者として生きたのだ。
今の世に彼が生きていたら、いったいどんな行動で、
私たちを、はっとさせてくれるのだろうか。



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