meeting with remarkable people [079]
菩提達磨
4世紀-5世紀


日本人にとって、「だるまさん」は親しい存在だ。
何度倒しても起きあがる「七転び八起き」、
願い事がかなったら目に墨を入れるなど、
赤い張子のだるまは人生を応援する縁起物として、
今も日本人の中で生き続けている。
しかし、実在した達磨は、
すさまじい修行の末に悟りの境地に達した、激烈な僧だった。
世界に禅というひとつの潮流を生み出した、達磨とはいかなる存在だったのか。

伝説の人物の常として、
達磨の出生には不明な部分が多い。
広く知られている説は、
南インド、香至王国の第三王子であったということだ。
仏教に帰依するきっかけについて、伝説はこう伝えている。
ある日、釈迦の仏法を継いだ27代目の祖師、
般若多羅(はんにゃたら)が王宮にやってきたので、
王はすばらしい宝珠を与えた。
般若多羅は王子たちに「この宝珠にまさるものはあるか?」と問うと、
他の王子は「ない」と答えたが、
ただひとり達磨だけは、
「物である宝珠より、仏陀の知恵の方が価値がある」と答えたという。
それを聞いた般若多羅は、
達磨を弟子として受け入れ、
後に第28代目の祖として「菩提達磨(ボーディダルマ)」という名を授けた。
「ダルマ」とは、サンスクリット語で「法」を表すもの。
それから60歳頃まで、彼はインドで仏教の布教に努めたという。

師の死後、達磨は中国に渡ることを決意する。
達磨がなぜ東を目指したのかは、
後に禅の公案になっている。
しかし、本当のところは謎に包まれたままだ。
達磨の教えを後に弟子がまとめた『二入四行論(ににゅうしぎょうろん)』によれば、
西暦520年頃、彼は、航海に3年の月日を費やして広州に上陸した。
当時の中国は南北朝に分かれていて、
達磨がまず謁見したのは、
南朝の梁を治める武帝だった。
武帝は以前から仏教を信仰しており、
天竺から来た高僧を喜んで迎えたという。
禅の公案に、武帝と達磨の問答がある。
武帝は「私は今までたくさん寺を造り僧を育てて来た。
これはどのくらいの功徳になっているだろうか」と聞いた。
それに対して、達磨は「功徳は何も無い」と答えた。
「では仏教における聖なる真理は何か」と聞くと「空っぽで何もない」と答えた。
さらに「何もないというのなら、お前は何者だ」と聞くと「知らぬ」と答えた。
武帝はこの答えを喜ばなかったので、達磨は北魏に向かったという。

この後、達磨は洛陽郊外の嵩山少林寺にこもり、
壁に向かってひたすら坐り続けるという修行を9年間続けて、
悟りに達したという伝説がある。この坐禅の姿を模して作ったのが、
現在のだるまの玩具だ。
あまりに長く座り続けたことによって、
手足が腐ってしまった姿なのだともいう。
達磨が行った「壁観」と呼ばれる修行法は、
以後、禅というものの本質を表す礎となった。

少林寺に婆羅門僧がいるという噂は中国の仏教者の間に広まった。
だが、彼らが教えを求めて達磨のもとに行っても、
ただ坐っているだけで、何も教えてくれない。
その中で、慧可(えか)だけは、弟子となることを繰り返し志願した。
沈黙して瞑想を続ける達磨は弟子を取るつもりはなく、これを拒否し続けた。
ついに、慧可は自らの左ひじを切り落として、
求道の決意を示したため、
ようやく達磨も彼の入門を認めたという。
この慧可が禅宗の第二祖となり、
以後、中国に禅宗が広まったとされる。

達磨の入滅は、150歳という記録が残っているが、
これは伝説として作られたものだろう。
他宗派の僧侶に毒殺されたという説もある。 
遺体は熊耳山(ゆうじさん)に葬られた。

達磨は、釈迦の教えの本質をもう一度問い直し、
「禅」という新しい流れを生み出した。
中国で芽吹いた禅の教えにはどこかタオイズムに通じる質があり、
仏教の中でも独特の位置にある。
そして禅は日本に渡り、
ミニマリズムを深化させ、結晶化した。
達磨がなぜ東を目指したのか、
そこには、大きな流れを受けた必然があったのかもしれない。




この人物についての関連書籍等はこちら → click!

BOOK CLUB KAI  [ home ] [ contact ] [ link ] [ privacy policy]・・・ [ back ] [ page top ]
Copyright (c) 1989-2007 BOOK CLUB KAI  All Rights Reserved.