meeting with remarkable people [083]
埴谷雄高
1909-1997


人間の観念という装置では、けっして認識しえないものを、
言葉で表現する…。
この絶対的不可能に、生涯を賭けて挑み続けた孤高の人がいる。
文学史上未曾有の形而上小説『死霊』を世に残した、
作家、埴谷雄高の魂は、いかにして形成されたのか。

1909年、当時、日本の植民地であった台湾の新竹で
彼は生まれた。
本名は、般若豊(はんにゃゆたか)。
父は財務官史を勤めた後、台湾精糖に入社。
家族と共に台湾各地を移り住むという日々は、
彼に、支配・被支配への嫌悪と非定着的思考を植えつける。
学業は優秀だったが、腺病質で早熟だった彼は、
幼い頃から、存在に対する不安定さを感じていた。
13歳の時、日本に帰国、その直後に、関東大震災に遭遇。
その体験も、多感な少年の心に深く刻まれた。

1925年、15歳の時、結核に感染し、北里研究所に通院。
この頃から、あらゆる文学を乱読し、
ニヒリズムとアナキズムの影響を受けるようになる。
特にヘーゲル左派の思想家シュティルナーが提示した、
「創造的虚無」という命題は、彼の魂を震撼させるものだった。
シュティルナーの主著『『唯一者とその所有』には、
「私の事柄を、無の上に、私はすえた。」と記されている。
虚無の中に浮く自我を、国家も宗教も人類も理想も、
支配できないという考え方である。
以後、さまざまな思想の洗礼を受けた彼だが、
「存在と虚無」という命題が、
彼の意識から去ることはなかった。

1928年、18歳の時、日本大学に編入。
彼の思想は、アナキズムを経てマルクス主義に接近する。
左翼の読書会を組織する一方で、演劇活動に従事した。
この時出会った女優の伊藤としは、後に彼の妻となった。
大学を退学し、日本共産党に入党、
農民闘争のための活動家として地下生活に入る。

1932年、22歳の時、不敬罪および治安維持法違反という
罪で逮捕、豊多摩刑務所に送監される。
独房に入れられた彼は、外界から断絶されたこの機会を、
思索の深化につなげることにする。
西欧の哲学・思想書を原文で読破し、
カント、ドストエフスキーなどに大きな影響を受けた。
しかし、彼は、人間の観念が到達できる境界を超え、
さらにその先を求めずにはいられなかった。
カントが哲学で触れてはならない領域として警告した、
「自我の誤謬推理」「宇宙論の二律背反」
「神の存在証明の不可能性」などの仮象の論理学を
哲学では不可能でも、文学なら封じ込められると思いつく。
こうして、「妄想実験」と執筆の日々が始まる。

刑務所を出ると、同人誌に『不合理ゆえに吾信ず』を発表。
詩と論理の融合によるアフォリズムに満ちたこの作品は、
多くの文化人に衝撃を与えた。
敗戦を迎えるまで、経済雑誌の編集に携わっていたが、
1946年、36歳の時、「近代文学」創刊。
前代未聞の形而上小説、『死霊』の連載を開始した。
『死霊』の執筆は、生涯を賭けたライフワークとなり、
1章から9章まで、50年間に渡って続けられることになる。

日本の文学界・思想界で、彼は特異な地位を築いていく。
また、あらゆる権力を否定する彼の姿勢は、
学生運動家たちの支持を集め、
ある種のヒーローとして憧憬される存在ともなった。
1970年、60歳の時、『闇の中の黒い馬』で谷崎賞受賞。
執筆の合間に、さまざまな評論・対談などを行い、
若き才能と交流する意欲も旺盛だった。
彼は、これを「精神のリレー」と呼び、人類が誕生して以来
つながり続ける、境界を超えようとする者の意気を愛した。

1997年、87歳の時、脳梗塞のため自宅で死去。
『死霊』は謎を残したまま、未完に終わる。
彼が全存在を賭けた宇宙問答は、次の世代に手渡された。
その問いかけは、人類の精神の前に、今もなお屹立している。



この人物についての関連書籍等はこちら → click!

BOOK CLUB KAI  [ home ] [ contact ] [ link ] [ privacy policy]・・・ [ back ] [ page top ]
Copyright (c) 1989-2007 BOOK CLUB KAI  All Rights Reserved.