meeting with remarkable people [085]
ヴァージニア・ウルフ
1882-1941


小説家ヴァージニア・ウルフが描く作品は、読む者を厳かにする。
海の中に潜った時のような静けさが漂う世界。
人間の世界と、それを超えた領域の行き来が休みなく行わる。
そのエッセンスを抽出しつづけたヴァージニア・ウルフとは、いかなる人物だったのだろうか。

1882年ロンドン。父レズリー母ジュリアのもと8人兄弟の7子として誕生した。
両親とも再婚で連れ子のある複雑な家庭ながらも、中流上層の豊かな暮らしだった。
父は著名な文芸評論家で、詩人や作家や画家が家を訪れる環境であったこともあり、
学校へは行かずとも、父親の蔵書を読み知性が育まれたようだ。
環境が影響してか9歳の頃、家庭内新聞を発行している。
父親は将来作家になる充分な才能があると考えていたという。
兄弟姉妹では2歳上の姉ヴァネッサと生涯交流をもった。

13歳の時母ジュリアが病死し、穏やかな生活が酷薄なものへ一変する。
人生で初めて精神衰弱を経験し、このころ異父兄からの性的虐待を受けたとされている。
22歳の時には父親が死去。作家を志すが躁鬱病で自殺未遂をおこす。
やがて友人が集うブルームズベリー・グループが始まる。
後の経済学者ケインズや将来の夫レナードも属しており、そんな周囲の環境の中、
彼女はペンをとることでしだいに回復に向かっていく。

彼女は生涯、何度も田舎での療養を強いられた。
1ケ月療養所に行った際には、療養所の所長が彼女に魅了される。
ヴァージニアは所長の献身的な愛情をいいことに規則を破るなど好き勝手に過ごしたが、
やがてロンドンへ戻る。彼女にとって都会は生きる事そのものを意味していたようだ。
しかしこの出会いは後年の彼女の助けとなる。

30歳で文明批評家のユダヤ人レナード・ウルフと結婚。
レナードは医師に相談して子供を作らない事を決意。
ヴァージニアも同意するが子供が欲しいという気持ちは捨てきれなかったようである。
この頃から酷い頭痛が彼女を襲う。
また彼女はいつも批評に対して、病的ともいえるほどの過敏症を持っていた。
原稿が終盤にさしかかるにつれて不安定となり、精神的苦痛から自殺を図る。

34歳の時キャサリン・マンスフィールドと交友が始まる。
ヴァージニアにとって彼女の作品は唯一嫉妬するものであった。
彼女が死去した際は
「書くための拍車をうしなった」
「もちろん、書き続けるだろう。でも空虚に向かってだ。競争者はいない」
と記している。

35歳からの数年間、彼女の精神状態は良好へ向かう。
印刷機を買い出版社を誕生させる事で、仕事が功を奏した。
この頃『夜と昼』の執筆や、労働婦人同盟の講演者として
政治的活動をするなど充実した生活を送る。

40歳、彼女の生活において重要な位置を占める
女性ヴィタ・サックヴィル・ウエストと出会う。
2人の間の愛情と友情は彼女にプラスに働き、
その後十年は『ダロウェイ夫人』『燈台へ』
『オーランドー』(ヴィタは『オーランドー』のモデルであった)など
次々に作品を発表。世界的作家へ仲間入りをし、
フェミニズムの運動家としても認められた。
この頃彼女は若い作家らと知り合うと同時に、
多くの知人の早世に立ち合い衝撃を受けるがレナードの存在が支えとなる。

第二次世界大戦が始まると家の中で多くの時間を過ごすようになる。
やがて再び狂気が忍び寄り、死に捉えられつつあると感じたヴァージニアは
1941年59歳の時ヴァネッサとレナード宛ての手紙を残し、自ら川へ身を投じた。
埋葬場所の碑には、ヴァージニアの小説『波』の一文が碑に刻まれている。
「おまえに向かって、私は身を投げる。征服されることなく、屈することなく、おお死よ!」

類まれなる勇気、知性、感受性の持ち主で
型通りの規範的人間という幻想を破壊し、正気と狂気の世界を絶えず行き来した。
彼女が触れた静謐な世界は、今も人々を魅了している。



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