meeting with remarkable people [087]
ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ
1853-1890


生前は無名画家。売れた画は1枚。
不安定、苦悩に満ちた生涯をおくりながら
このうえなく激しい表現力で作品を生み出したゴッホとは
どのような人物だったのだろうか。

1853年、ヨーロッパ北部オランダにヴィンセント・ヴァン・ゴッホは
プロテスタントの牧師である父親の元に生まれた。
4年後、弟テオドルス(通称テオ)誕生。
文通を交わし、テオの息子はヴィンセントと名付けられ、
画商で働く弟が、兄を精神的にも物質的にも支えた。
今、ゴッホの作品が多くの人の目に留っているのも
人生を兄にささげ支え続けたテオの存在があったからといっても過言ではない。

寄宿学校を卒業したゴッホは、美術商や書店で働くが長くは続かない。
敬虔深く、聖書の研究に熱中し、伝道師養成学校へ入るが、資格は得られなかった。
25歳、貧しい炭鉱夫たちをキリスト教へ導こうと志し献身的に活動するが失敗する。
宗教心が強く、やさしい愛情の持ち主だったが、怒りやすい短気な面もあったようだ。
しかし、すぐに冷静になり許しを請う手紙を書くなどして心の気高さを示したという。
失恋で精神を病んだり、伝道師仮免許の剥奪など辛いことが続き27歳で、
画家になる決意をする。

32歳、パリのモンマルトルに移り、テオが温かく迎えいれ共に暮らし始める。
フランスの風土と気候に魅了され、パリでの暮らしはゴッホを変容させた。
どんなデッサン教室にも留まることができない性格だったが
ロートレック、ゴーギャンなど気の合う芸術家たちに出会い、
ひたすら独学の日々を過ごす。
厚塗りで暗い印象の民衆がテーマの作品から、色彩は明るく変化した。
また、日本の浮世絵に興味をもち作品の背景に浮世絵を描いたり、
収集、展覧会開催など活動的にすごし、
パリは、彼を健康で幸せな人生へと導いてくれるかのようだった。

ところが、2年半が過ぎ、孤独な都会の生活が次第に耐え難いものとなっていく。
画の情熱を再燃させるため、南フランスのアルルへと移る。
ゴッホの希望でゴーギャンが数ヶ月滞在。
彼を迎え入れるために描かれたのが有名な「ひまわり」だ。
しかし、共同生活は長くは続かず、
ゴーギャンが去ってしまうことを怖れたゴッホは
嫉妬深くなり緊張と確執の末、自らの左耳下部を切り取り落とした。
一説によると、お互いの絵を描いていた2人の画は
共に「狂気」の状態が描かれており、
自身の狂気の姿をみたゴッホが、ショックで耳を切り落とし、
それにゴーギャンが耐えきれなくなった、
あるいは癲癇(てんかん)の一種だったなどと言われている。

37歳、テオの近くに住むため、オーヴェール=シュル=オワーズへ。
この場で、ゴッホは盛んに創作し続けたにもかかわらず、
憂鬱は去らず自分の生涯が失敗であり、
深く苦悩に満ちたものであると感じていたようだ。
テオや彼の妻子の足手まといになっているのではと手紙に記されている。
パリを訪れ、友人らに会うが意気消沈。その日の内にオーヴェールへ戻る。
テオとも激しい口論があったようだ。
「鳥のいる麦畑」を制作した数日後の1890年7月27日、自ら胸部をピストルで一発撃つ。
証言によると、「どうにもならない!どうにもならない!」とつぶやきながら、
同じ所を行ったり来たりしていたという。
それから、2 日間生きながらえたが
駆けつけたテオに見守られながら息を引きとる。
享年37歳だった。
そして、病弱だったテオも兄の死をきっかけに衰弱していき
後を追うように半年後に他界。享年33歳。
兄弟はオーヴェール=シュル=オワーズの墓地に今も並んで眠っている。

画家となる決意をして、わずか5年の間に芸術を築き上げたゴッホ。
全生涯の重みをかけて描き続け、芸術によって自分の限界を打ち破った。
理性の破壊、純粋・狂気とさまざま言われているが、
実際は、人の心の動きに敏感で、真摯でもあったのだろう。
現代絵画に多くの影響をあたえたばかりでなく、
彼の描く孤高の精神を前に、
多くの人が立ち竦まずにはいられない。



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