meeting with remarkable people [088]
福岡正信
1913-2008


戦後、発展へとひた走る世の中の流れとは逆行するように、
いち早く人智の不完全さに気づき、無為自然への回帰を説いた福岡正信。
自然を神とするその思想は、農法にとどまらず、
人間の生き方すべてに革命を起こすものだった。
現代の老子とも称される彼の一生を追ってみたい。

1913年、愛媛県伊予市に生まれる。
1933年、岐阜高農農学部を卒業後、
翌年、20歳で横浜税関植物検査課に勤めはじめる。
植物病理の研究室で顕微鏡をのぞきながら、
ミクロの世界の自然の営みに驚愕する日々を送る平凡な青年だった。

しかし、1938年、25歳の春、急性肺炎を患い入院。
順風満帆な生活から一転、死の恐怖に直面する。
退院後も生や死についての懊悩が続き、仕事も手につかず、眠れず、
幾晩も山の上や港をさまよい歩く苦悶の日々が続いた。
そんなある晩、港の見える丘で木にもたれ、
夜明けとともに朝もやが晴れていく中を鳥が飛び去る姿を目にする。
その瞬間、閃光のようなひらめきによって「この世には何もない」ことを悟る。
この無の体験、神との出会いこそが、彼の人生を一変させ、
自然へと回帰していく一大転機となる。
その翌日には仕事を辞め、新たな人生の一歩を踏み出しはじめる。

世の中のあらゆることは無価値で無意味、
人知や人為、一切のことは無に帰してしまうという
一切無用論を説きながら全国を放浪するが、
誰にも相手にされず、結局、郷里の愛媛に戻ることとなる。

人間は何もしなくてもいいという考えを百姓をすることで実証しようと、
父親のミカン山に建つ山小屋で原始生活を開始する。
ここが後に福岡自然農園となり、
世界各国から見学者が絶えない自然農法の発信地となる。
しかし、「自然」と「放任」をはき違えていたために、
譲り受けたミカン山は荒れ果て、初めての自然農法の試みに失敗する。

1939年、26歳の頃、戦争が激化しはじめ、
終戦までの8年間を高知県農業試験場に勤める。
その期間、科学農法の指導と研究で戦争中の食料増産に携わりながらも、
自然農法と科学農法の比較研究を続けたという。

終戦後は郷里に戻り、以降60年余を自然農法一筋に生きる。
自身の地道な実践結果から、近代農法を一つ一つ否定し、
余分なものを削った楽農、惰農を目指す。
そして37歳で自然農法の米麦の基本的パターンである、
わらとクローバーを使った米麦連続不耕起直播栽培を完成させる。

1975年、62歳で現在20ヵ国あまりで翻訳されている
代表作「自然農法 わら一本の革命」を出版。
自然の力を生かし、その秩序に従うための、
不耕起、無肥料、無農薬、無除草の自然農法4原則を発表する。

1979年の渡米中に国連砂漠化防止対策局長に相談されたのを機に、
さまざまな植物の種と粘土とを一緒に混ぜた粘土団子を使い、
自然農法による緑化活動をアメリカ、アフリカ、インド、タイ、ギリシアなど
世界各地で取り組み始める。
その自然に則した、精力的な活動が評価され、
1988年にはインドのタゴール国際大学学長の
ラジブ・ガンジー元首相から最高名誉学位を授与、
同年、アジアのノーベル賞と称されるフィリピンのマグサイサイ賞受賞、
そして1997年には世界の持続可能な開発に貢献した人々に授与される
アース・カウンシル賞を受賞。

90歳を過ぎ両手に杖をつくほどに歩行が困難になっても、
中国の要請に応えて技術指導に赴いたり、
自身の全著書を1年間かけて要約し
『いろは歌48首』にまとめ上げるなど、
最晩年までその活動は衰えなかった。

2008年、95歳の時、老衰のため自宅で息を引き取る。
天寿をまっとうした大往生であったという。

文明が発達し、ものに溢れ、生活が便利になった一方で、
自然と乖離してしまった現代人が失ったものは、はかり知れない。
その喪失がもたらした結果は、表面に現れている以上に、
いま取り返しのつかないところまで来ているのかもしれない。
生涯を賭けて、自然とは何であるか、
その中で人はどう生きるべきかを示し続けてきた彼は、
21世紀に大きな課題と向かうべき方向を残してくれたといえる。



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