meeting with remarkable people [091]
宇野千代
1897-1996


「愛は魅惑として、引力として、はじまる。」
『宇宙はグリーンドラゴン ビッグバンは地球に何をたくしたか
/ ブライアン・スウィム(絶版)』にある言葉である。
すべての始まりであるビックバンの本質は、互いに引き寄せあう引力であり、
私たち人間の呼ぶ「関心」や「魅力」「魅惑」といった神秘的な引力もまた、
あらゆるものをもたらす基本的な宇宙の法則であるという。

小説家、宇野千代は、幾多の結婚遍歴とその破局で生涯を賑わせた。
女性実業家の先駆者としても知られ、歳を重ねるごとに
より強く輝きを増していった彼女の魅惑とはどんなものだったのだろうか。

1897年、明治30年、山口県岩国に彼女は生まれた。
2歳の頃に母は肺結核により死去。
翌年、父は再婚するも千代16歳の時、病没。
17歳で小学校代用教員となるが、
同僚と恋に落ちた時から、千代の放浪の人生は始まる。
恋愛が原因で退職し、一人韓国へ渡り、
その後は京都、東京、札幌、そして又東京といった生活が続く。

26歳で『脂粉の顔』で懸賞小説の一等に入選し、
以後作家生活に入るまでは、雑誌社の事務、家庭教師など職を転々とするが、
たった18日間働いたレストランでは、
芥川龍之介や今東光といった作家達の知遇を得、
文壇への足がかりを作った中央公論社編集長との運命的な出会いもあった。

尾崎士郎、梶井基次郎、東郷青児、北原武夫など、
高名な作家や画家との次から次への出会いと別れは、およそ50年続く。
相手を支配する争いや修羅場となりそうなものだが、
千代は、自身の身の上におこったことは誰のせいにもせずに、
別れや引っ越しも愉しみに変えた。
恋愛遍歴についての淡々とした陽気な語り口からは、
まっすぐな純粋さが浮かび上がる。

お洒落が大好きだった彼女は、誰よりも早く断髪し、
文士の妻たちも相次いで断髪するという物議をかもした。
昭和11年、スタイル社を興し、日本初のファッション専門誌「スタイル」を創刊した。
現在では、人生哲学で有名な千代だが、小説も多くの文壇の玄人から絶賛されている。
38歳で刊行した『色ざんげ』は、
当時同棲していた画家東郷青児が他の女と起こした心中未遂事件を、
千代流にひとつの物語とし、事件を男の口から一人称で語らせた作品。
60歳では、10年の歳月をかけた『おはん』を刊行。
文章の一字一句に、宇野千代という女性の静かな決意の世界が広がっている作品だ。
執筆は少しずつしか進まないが、
毎日机にひたすら向かうことが肝心であると言っている。
本のタイトルにもあるように、頭で考えるだけではなく、
手を動かし、行動することをモットーとしていた。

5歳年下の小林秀雄を尊敬してやまなかった千代は、
彼の生原稿はつねに手元に置き、彼の肖像画には、毎朝、語りかけていた。
70歳の時にも、小林秀雄から岐阜県本巣市にある樹齢1500年の
「淡墨桜」の話を聞いた時には、すぐに見に駆けつけた。
桜は千代の小説や着物にも多く使われている。

「成功哲学」の先駆けとなった中村天風にも出会っている千代。
自分と同じように波乱万丈の人生を経ており、
語り口も非常に魅力的だった天風には自然に共感できたのだろう。
1996年、98歳の時、千代は永眠した。

長い歳月を生きた樹木のような確かさを持ち、
どんな恋も暮らしをも愛した宇野千代。
友人の青山二郎は、「最も善く出来た田舎者」と呼んだが、
田舎者といっても、小説や芸の才能は恐ろしく独特の魅力が備わり、
91歳の時に国立劇場で行われた「おはん」の舞台公演は、
満席でチケットが取れなかった。
離婚、会社の倒産など不運の出来事などに遭遇しても、
うらみ、ねたみ、悪口の言葉は発しない千代。
自分の損得だけを考えていると、魅力はなかなか生まれてこない。
身の上に起こったことは、誰のせいにもせず、悲しさ、辛さを知りながら、
その重さをすべて引き受けようとした覚悟が、
宇野千代を魅惑的にしていた一つといえるだろう。



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