meeting with remarkable people [101]
長谷川潔
1891-1980


横浜に生まれ、フランスに没した銅版画家。
吸い込まれるような深い漆黒の殻の中に、
浮かびあがるように配置された小鳥や砂時計、
何かを暗喩するような神秘的な作風で知られる。
この画風は、マニエール・ノワール
(仏語で「黒の技法」英語でメゾチント)という技法で生み出されたものだった。
明治の時代に極東の島国に生まれた少年が、
このような画風に辿りついた道のりは、どのようなものだったのだろう?

長谷川潔は1891(明治24)年、横浜に生まれた。
父は国立第一銀行横浜支店の支店長で、富裕な環境の中、
論語の素読や拓本を手本とする書など、風雅な文人教育を受ける。
しかし11歳の時に父を病で亡くし、18歳を目前にして母を亡くす。
兄弟は姉二人、弟二人がいたが、このうち長姉と次弟は既になく、
次姉は嫁いで家にいなかったため、母亡き後、
潔は末の弟と二人、麻布の邸宅にとり残された。
その弟も渡仏直後の1920年、潔29歳の頃に亡くすこととなる。

1910年、美術の道に進む決心をし、素描や油絵を学んだが、
文学同人誌『聖盃』の表紙を木版画で手掛けたことで、本格的に版画の道に進むこととなる。
この頃、ムンク、ルドン、ビアズリーなど、幻想的な作風の画家たちの強い影響を受け、
スウェーデンボルグの神秘思想に親しんだという。
その後、銅版画技法習得のため、1918(大正7)年、27歳にしてフランスに渡る。
渡仏後、長旅の影響で体調を崩すが、同時にこの時期、
生涯の伴侶となるミシュリーヌ夫人と出会い、
ほどなく彼女とその連れ子、ベルナールと生活を共にするようになる。
その後潔は南仏で療養しながら、版画の各種技法を研究、習得していく。

当時日本で一般的だった版画技法、木版画は
版の出っ張った部分にインクが乗る凸版印刷だったが、
ヨーロッパで盛んに用いられた銅版画は、削った部分にインクを入れ、
プレス機で強い圧力をかけて印刷する凹版印刷の部類に入る。
鋭利な刃物で硬い銅板を削るため、時間と労力を要するが、
細かい表現が可能で、技法にも様々な種類があった。
マニエール・ノワールはこの中の一つで、
17世紀中頃にヨーロッパで考案されたものだったが、当時は忘れられかけていた。
そこに独自の新たな工夫を加えて光を当てたのが潔だった。
彼は各種展覧会に作品を出品し続け、やがてフランス画壇で認められるようになっていく。

しかし1939年、第2次世界大戦が勃発。
48歳だった潔は開戦後もフランスに留まるが、日本からの送金が途絶え、
貧困の中、作品と向き合うこととなる。
そんな時、楡の木との交流を経験する。
その体験を、彼は次のように語っている。

「その朝も、遠くの雲を眺めたりしながら、いつも通る道を歩いていったのだったが、
不意に、一本のある樹木が、燦然たる光を放って私に語りかけてきた。『ボン・ジュール!』と。
私も『ボン・ジュール!』と答えた。…中略…
波長を合わせることによって聞こえてくる万物の声というものがあるのだ。
そのとき以来、私の絵は変った。」

この木は1941年、〈一樹(ニレの木)〉として作品に表わされる。
その後1945年54歳の時、独伊敗戦の結果としてパリ中央監獄への収監、
その後の釈放などを経験し、潔の作品は深みを増していく。

晩年はマニエール・ノワールによって、宇宙のリズムを表現することを試み、
その作品は高い評価を得るようになる。
1980年、1本の古樹や、枯れた種草の中に宇宙の根本原則を探した版画家は、
89歳でパリに永眠する。
渡仏後ついに日本に帰ることはなかったが、本人の遺志により遺骨は日本に戻され、
ブッククラブ回からもほど近い、青山墓地に眠っている。



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