meeting with remarkable people [104]
ジョセフ・H・ピラティス
1880-1967


若い女性を中心に、
姿勢が良くなりボディラインが美しくなると
人気に火が付いたピラティス。
ピラティスとは、人の名前で、
ドイル人のジョセフ・ヒューベルトュス・ピラティスが考案した、
元々はリハビリ用のエクササイズ。
ヨガと似たようなものと思われがちなピラティスだが、
実際は似て非なるもの。その「ピラティス」の誕生に迫った。

ピラティスは、1880年12月8日(1883年12月9日という説もある)
ドイツのメンヒェングラードバッハで生まれた。
幼少時代は病弱で、喘息やリウマチ熱、
くる病などに悩まされたという。
病気を克服するために、様々な身体訓練・スポーツに没頭し、
14歳になる頃には解剖図のモデルになるほど
体を鍛え上げたという。
ピラティスの運動と健康の研究は
この時からすでに始まっていたと言えるであろう。

1912年、ピラティスは弟と渡英。
イギリスで、ボクシングやサーカスで
パフォーマンスをしていたと言われている。
2年後の1914年、第一次世界大戦が始まり
イギリスで捕虜となり収容所に抑留されるが、
看護師となり傷ついた仲間のために、
ピラティスはベッドの上でも出来る運動を考案した。
これが後にコントロロジー(体、頭、精神の完全な調和を目指すもの)
と名付けたピラティス・メソッドの始まりと言えそうだ。
1918年、終戦となりドイツへ帰国。
帰国後は、その身体訓練方法を見込まれ
ドイツ軍に一時従事していたようだが、
ホリスティク・メディスン、ホメオパシー、ヨガなどに興味を持ち、
健康法や身体訓練の研究に多くの時間を費やし、
更にピラティス・メソッドを深めた。

1925年、ピラティスはボクシングマネージャーに薦められ渡米する。
そして、ニューヨークへ向かう船上で、
後の妻となるクラーラと出会う。
1926年、マンハッタンでボクシングジムの中に
クラーラとともに、ピラティス・スタジオを開設。
同ビル内に、ダンス学校やリハーサルスタジオがあり、
トレーニングのためにダンサー達が多数訪れた。
当時、アメリカン・モダンダンスの全盛期であり、
有名なダンサー達からも支持され
ピラティス・メソッドは口コミで広がった。

1934年、初めての本『ユア・ヘルス』を出版。
続いて、1945年、2冊目となる
『リターン・トゥー・ライフ・スルー・コントロロジー』を出版した。
自身のメソッドを広めようと、医療現場や学校、
軍関係者に精力的に宣伝をしたが、
当時、多くの理解は得られなかったようだ。
1965年、ニューヨークの百貨店ヘンリべンデルに2番目のスタジオを開く。
1965年、マンハッタンのスタジオが火災に遭遇し、
1967年10月、火事の後遺症により
ピラティスは86歳でこの世を去った。
1970年、妻のクラーラは引退し、1976年に永眠した。

ピラティスの没後、弟子達によって
ピラティス・メソッドは広められ、
ハリウッドスターやスポーツ選手、
セレブリティの間で支持され話題となった。
1996年、「ピラティス」を商標登録するか否かで訴訟が始まり、
2000年に普通名詞との判決が下る。
この頃を境にピラティスがアメリカで大ブームとなり、
瞬く間に欧米やオーストラリア、日本へと渡り、
世界中で愛され現在もなお広がり続けている。

ピラティスは、生涯をかけて体と心のバランス
自然との調和について研究し、
体を動かすことを学問と捉えた。
その愚直なまでの探求心は、病弱を克服した経験と、
ピラティスが持つピュアな心が動かしたのだろう。
体のしくみを理解し、
自分の意志でコントロールする能力を身に付ければ、
身体と精神のバランスを統一させることができ、
人は幸福を享受できると唱えた。
たどりついたその理論は、運動のための哲学にとどまらず、
生きていくうえでの支柱となる
私達に贈るメソッドなのかもしれない。



この人物についての関連書籍等はこちら → click!

BOOK CLUB KAI  [ home ] [ contact ] [ link ] [ privacy policy]・・・ [ back ] [ page top ]
Copyright (c) 1989-2014 BOOK CLUB KAI  All Rights Reserved.