meeting with remarkable people [105]
明恵
1173-1232


自身の夢を生涯に渡って書きとめた
『夢記』で知られる明恵房高弁。
平家から源氏、北条氏へと、
権力の座が慌ただしく移り変わり、
法然、親鸞、道元、日蓮など
独自の宗派を立ち上げた開祖たちが次々と現れ、
動乱の中で日本の宗教的思想が花開いた時代に、
華厳宗の一僧としてあり続けた明恵。
しかしその一生を記した伝記が長く読み継がれるなど、
後の日本人の生き方に深く影響を与えた人でもある。

武士の家に生まれ、8歳で両親を失い仏門に進むが、
驕りを退けるための剃髪染衣で
美しさを競うような当時の仏教界の有様に耐えられず、
23歳で神護寺を出る。
紀州白上の峰に隠遁すると、
そこでひとり禅定に励んだ。
弟子は取らなかったが、
こうした明恵の生き方を慕い、
共に過ごしたいと願う僧たちが集まっていった。
剃髪ももはや意味をなさないと考えた明恵は、
さらに身をやつすため自身の右耳を切り落とす。
このように仏の道に対する態度は
常に相当な覚悟を伴ってものだったが、一方で、
その景色を愛した島から持ち帰った石を常に側に置き、
懐かしく思う気持ちを綴った手紙を
島に宛てて書くなど、自由な心で自然を愛する人でもあった。

33歳の頃、修行を続けるうちに仏陀を慕う心が募り、
天竺(インド)行きを計画する。
しかし親類の女性に降りた春日明神が、
計画を中止し日本の人々を救うよう告げたことで
天竺行きを断念する。
その後もう一度計画を実行しようとするが、
体調が悪くなる、再び託宣があるなど
さまざまなことが起きたことで日本に留まることを決意した。
明恵が知ることはなかったが、
ちょうどその年イスラム教がインド全土を席巻し、
インドでは仏教が消滅したのだった。
これまでは自らの修行にのみ専念してきた明恵だが、
人々からの信奉を得て、
この翌年後鳥羽院より京都高山寺を賜り、
さらにその翌年には東大寺尊勝院筆頭を任ぜられ、
それを承諾した。天竺行きを断念し、
寺を賜るという転換期を受け止めた明恵は、
以降、仏門以外の人々との関わりと自身の修行という、
二つの道を生きていくことになる。

高山寺には生活の規範が書かれた
一枚の掛板が残されている。
冒頭に書かれた「あるべきやうわ」という言葉は
明恵が生き方を律するための根本となる言葉として用いたものだ。
「後生を助かろうとしているのではなく、
此の世に有るべきように有ろうとしている」としていた明恵。
「あるがまま」ではなく、
その時その出来事における「あるべきやう」を常に問いかけ、
その答えを今ここで生き抜く気概が込められた言葉である。
「僧は僧のあるべきやう。俗は俗のあうべきやう。
乃至帝王は帝王のあるべきやう。
臣下は臣下のあるべきやうなり。
此のあるべきやうを背く故に一切悪しきなり。」
この自身の思想を生きることで、
時の権力者と一度は対峙し、やがて信を得ることとなる。

明恵が49歳の時に承久の乱が起き、
後鳥羽院以下、朝廷方の権力者は失脚、
北条氏による武士の統治が本格的に始まる。
このとき明恵は朝廷側の多くの落人や家族をかくまったことで
六波羅に引き立てられた。
為すべきことを為したまでと
泰然とした態度の明恵に北条泰時は心服し、
以降2人は親交を重ねるようになった。
その後も泰時を始めとする
多くの帰依者を得て講義を行う一方で、
明恵は山に隠り禅定に務めることも忘れなかった。
臨終に際し「我、戒を護る中より来る」と告げるほど
徹底した戒への姿勢を貫いた明恵。
その姿を描いた代表的な「樹上坐禅像」。
樹上で禅定する周囲をリスや鳥に取り巻かれ、
その中心にいる明恵の表情はとても穏やかだ。



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