meeting with remarkable people [107]
J・D・サリンジャー
1919-2010


『ライ麦畑でつかまえて』という小説を読んだことがなくても、
その存在を多くの人が知っているだろう
ジェローム・デイビット・サリンジャーは、
ユダヤ系移民の息子という背景を、
おもてに出さないよう、その名前をJ.D.と表記したといわれている。
その生い立ち、人生はどのようなものだったのか。

1919年1月1日、ポーランド系ユダヤ人で
貿易会社を経営する父と、
スコットランド系のアイルランド人で
カトリックである母との間に生まれた、8歳年上の姉と共に、
裕福な家庭の長男としてニューヨークで生まれた。
1932年、一家の転居に伴い私立マクバーニー校に転校する。
このころは以前から興味があった演劇に熱中した。
そのマクバーニー校は、成績不良で1934年に退学処分となり、
寄宿学校であるヴァレーフォージ軍学校に転校する。
そこでの興味もやはり演劇と文学であり、
サリンジャーは、消灯後も布団の下で
懐中電灯をたよりに執筆していたという。

無事に高校生活を終え、
ニューヨーク大学ワシントンスクエア校に入学するも翌年に退学。
サリンジャーが希望していた俳優や執筆業よりも、
家業を継いでほしいと強く願う父によって、
輸入業の仕事に興味を持たせようと、
オーストリアとポーランドへ送り出される。
帰国後、アーサイナス大学に入学するも、
1学期で退学するが、この大学在籍中に職業作家になろうと決意した。
1939年20歳でコロンビア大学の短編小説創作コース、
詩作コースを受講し、作品を書き続けるが、
独立できるほどの収入は得られず、実家暮らしが続いた。

1941年、太平洋戦争の勃発を機に自ら志願して軍務に就く。
その間も作品を書き続けていた。
戦争末期、数々の激戦地をくぐり抜け奇跡的に生き残ったが、
精神的に追い詰められ、
1945年、陸軍総合病院で精神衰弱と診断され入院し、
治療を受けることとなった。
現在であれば、PTSD(心的外傷後ストレス障害)と
診断されるところであろう。サリンジャーが、
この体験を元に戦争小説を書かなかったことから、
その心の傷があまりにも深いものであったと推測される。
サリンジャーは、その入院中にドイツ人医師
シルヴィア・ヴェルターと出会い結婚。
11月に除隊。結婚生活は長く続かず1年で離婚している。

その後も数々の作品を発表し、
1951年長編小説の『ライ麦畑でつかまえて』
(『キャッチャー・イン・ザ・ライ』)を発表すると、
保守的な教育者、キリスト教関係者などからは反発を受け、
また、専門家からの評価は賛否両論であった。
しかし、一般の読者からの支持を得てベストセラーとなり、
大きな反響を生む代表作となった。
その主人公ホールデンは、
イノセンス(無垢なもの)に対する憧れが強い
サリンジャーそのものだと言われている。

文壇の仲間入りをしたサリンジャーだが、
1953年ごろからニューハンプシャー州の田舎町コーニッシュに転居し、
静かに暮らすようになる。
1955年2月クレア・ダグラスと結婚。
12月には長女マーガレット・アンが誕生する。
その後も『フラニーとゾーイー』など、
いくつかの作品を出版したが、1965年以降、
執筆はしていたものの作品を発表することはなかった。
1967年には2度目の離婚。
1970年代には、自然食、瞑想、ホメオパシーなどに関心を持ち、
また、東洋思想の研究をしていたというのも興味深い。
1992年には77歳で33歳のコリーン・オニールと3度目の結婚をする。

そして、45年という長い沈黙を守ったまま、
2010年1月27日、サリンジャーは、91歳でその生涯を終えた。
特別な小説『ライ麦畑でつかまえて』で注目を集め、
多くの読者に愛されたサリンジャーの死は、世界中に報じられた。



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