meeting with remarkable people [110]
米原万里
1950-2006


ロシア語の同時通訳者として第一線で活躍したのち、
文筆家としても文壇を華々しく飾った米原万里。
通訳としても作家としても、
異なる文化と言語のはざまで相互理解を探求し続けた。
没後10年余りたった現在でも、
全ての著作が出版され続けるという
根強い人気を持つ彼女の作品の魅力は、
生まれ持った強い個性に加え、
少女時代を過ごしたプラハでの
異文化体験によるところが大きいだろう。
作品の面白さもさることながら、
実妹が「本人の方がもっと面白かった」と評している
米原の軌跡を振り返ってみよう。

日本共産党常任幹部委員だった父、
米原昶(いたる)の長女として
1950年 4月29日、東京で出生。
9歳の時、この父がチェコスロバキアのプラハにあった
国際共産主義運動の理論誌の編集局に
派遣されることとなり、一家で移住する。
日本に帰国した時にチェコ語の教材や
教師が見つけられないだろう、という両親の判断により、
3歳下の妹、ユリとともに、
ソ連の外務省が運営する在チェコソ連人向けの学校に通うことになる。
習得までに苦しい半年間を送ったが、
完璧に身につけたロシア語は、その後通訳業に活かされ、
約50カ国から集まった子供達が学ぶ学校での体験は、
彼女に豊かな国際感覚と異文化に対する感性を授けた。

1964年、14歳で日本に帰国し、
中学に編入した米原が受けたカルチャーショックは、
試験が○×式や選択式だったこと。
ソビエト学校では全教科で口頭試問か論述式だったためだ。
つまり、他人に伝える訓練を徹底的に受けることになる。
また、ロシアでは
「言葉があらゆる学問の基礎体力だ」という考えから、
国語の時間がふんだんに設けられており、
理科や社会、歴史などを国語で教えられたという。
こうしたプラハでの教育が
米原の文章力や伝達力、表現力を培ったと言えよう。

1971年、東京外国語大学ロシア語学科に入学すると、
学生運動に取り組む傍ら、演劇や民族舞踊に熱中する。
同大学の大学院を修了したものの、
70年代の不況に遭い、就職は難航し、縁あってロシア語通訳業を始める。
当初は「天職が見つかるまでの」
腰掛け的な通訳業だったのが、
85年の米ソ会談でゴルバチョフ書記長の同時通訳を務め、
通訳として本腰を入れてやっていくことを決意した。
折しも、80年から90年代にかけての
ペレストロイカや冷戦終結により、
通訳の仕事は急激に増え、激務を重ねることとなった。

95年、自身や通訳仲間のエピソードを交えた通訳論、
『不実な美女か貞淑な醜女か』で読売文学賞を受賞。
以降、旺盛な執筆活動を始めると、
豊富な知識とユーモアが評判となり、
数々の文学賞を受賞する。
2002年には初の長編小説、
『オリガ・モリソヴナの反語法』を執筆し、
小説家になりたいという子供の頃からの夢を
実現することとなった。

日本の社会や文化を一歩引いて捉える
グローバルな視点を常に持ち、
日本では情報量の少ない東欧社会を垣間見せてくれた米原万里。
下ネタやダジャレを愛したことでも知られ、
ウィットに富んだ軽妙なエッセイを著す一方、
小説で見せるストーリーテリングの力は、まさに圧巻だ。
卵巣癌に冒されていた米原は、
2006年5月25日、鎌倉の自宅で命を閉じる。
享年56歳、惜しい逸材を失った。





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